【画像】志村けんといしのようこの関係は?坂上忍とはライバルだった?若い頃イケメン!

志村けんさんといしのようこさんは、コントや舞台で息の合った掛け合いを見せた“名パートナー”。私生活では親密と報じられた時期もありますが、双方とも明確には語らず、実像は「仕事での強い信頼関係」に集約されます。

一方で坂上忍さんとは、1990年代半ばにいしのさんをめぐる“三角関係”が取り沙汰されたものの、芸能界での直接的なライバル関係ではありませんでした。

若い頃の志村さんは、シャープな目元と端正な顔立ちで“イケメン”としても知られ、ドリフ加入後は『全員集合』『だいじょうぶだぁ』『バカ殿様』などで国民的スターへ。

晩年は『天才!志村どうぶつ園』や朝ドラ出演まで表現の幅を広げ、最後まで人を笑顔にする姿勢を貫いた生涯でした。

この記事でわかること

  • 志村けん×いしのようこ|“名コンビ”と噂の真相(公私の距離感)
  • 坂上忍との関係|恋のライバル報道と実際の立ち位置
  • 若い頃がイケメンと言われる理由と代表的な写真・エピソード
  • ドリフ加入から『全員集合』『バカ殿様』までのブレイクの軌跡
  • 晩年の活躍|『志村どうぶつ園』や朝ドラ出演で見せた素顔
目次

【画像】志村けんといしのようこの関係は?坂上忍とはライバルだった?

志村けんといしのようこの関係は?

志村けんさんといしのようこさん
引用元:週刊女性プライム

志村けんさんといしのようこさんは、テレビ番組や舞台で名コンビとして知られています。

2人は1987年の出会い以降、私生活でも親密な間柄ではないかとたびたび噂され、実際に記者に二人でいる写真を撮られたそうです。その際に「恋人ですか?」と記者に訊ねられると、志村けんさんが「うん!」と答えたという話もあるそうです。この発言後一年ほど同棲し、すぐに別れたそうです。

のちに志村けんさん自身が「結婚する気はさらさらございませんと公言し、いしのようこさんも「ご飯に誘われても行かないとっとと帰っていた」と語っており、恋愛関係については明言を避けています。

2人の関係性は、仕事上の信頼と抜群のコンビネーションに裏打ちされた特別なパートナーシップであり、しょっちゅうケンカすることもあったが、「本当の夫婦みたい」と周囲に言われるほどだったといしのようこさんは振り返っています。

上の写真は2012年の写真で、志村けんさん主催の舞台での一幕です。お二人とも楽しそうですね!

けん

志村けんさんは
他の人ともお付き合いしていたイメージがあるのだけどなぁ。

のぞみ

他にも渡辺美奈代さん、優香さん、みひろさん、磯山さやかさん…、本当に女性から好かれてたのね!

志村けんと坂上忍はライバルだった?

引用元:X

志村けんさんと坂上忍さんは、直接的に芸能界でライバルと呼ばれる関係ではありませんでした。2人はジャンルも活動の中心も異なり、志村けんさんはコメディアン・バラエティの第一人者、坂上忍さんは俳優やタレントとして活躍していました。

ただし、1996年前後にいしのようこさんをめぐる三角関係が話題となり、私生活で一時的に“恋のライバル”と報じられたことがあります。いしのようこさんは当時、坂上忍と数年にわたり交際と別れを繰り返しており、その後に志村けんとの親密な関係が注目されました。

志村けんさん
引用元:産経新聞


上の画像は2016年正月に放送されたダウンタウンなうスペシャルのものです。行きつけのお店で坂上忍さんと談笑する志村けんさんです。わだかまりがあったなんで信じられない光景ですね。

けん

そういえば志村けんさんはダウンタウンとも親しかったの?

のぞみ

浜田さんと仲良しだったんですって。
一緒にゴルフに出かけたりしたみたい。

【画像】志村けんは若い頃イケメン!

10代(1960年~1969年)

志村けんさん
引用元:文春オンライン

志村けんさんは、東京都東村山市で育ちました。「子供のころから面白いことが大好きで、よく友達とふざけあったり、笑わせたりしていた」そうです。

小学校1年生の運動会で、緊張のあまり徒競走のスタート時に大便をもらしたことがあり、この出来事がきっかけで周囲のイメージを払拭しようと変なことばかりするようになったといいます。小学校時代の失敗や恥ずかしい経験が、逆に自分を面白い方向へと駆り立てた原点だったと振り返っています。

その一方で、小学校の先生でいつも厳しかったお父さんが「テレビから流れるコントを観ては、笑いをこらえてるんだよ」と懐かしみ、このころから笑いっていいな、と感じていたそうです。

しかしお父さんが中学校時代に交通事故にあい、後遺症で働けなくなります。このため、ゴルフのキャディーなどアルバイトで家計を助けたそうです。中学校では音楽好きが高じてバンドを組み、すでに仲間とコントも演じていました。

上の画像は高校二年生の林間学校での写真です。凛々しい顔立ちですね!

志村けんさん
引用元:文春オンライン

高校では初めて恋人をつくり青春を謳歌したそうです。どんな人からも好かれたようで、店のおばちゃんとすぐ仲良くなってオマケをもらうこともありました。他にも友人たちと化学の授業用の白衣を着て校内を歩き回るなど、ユーモアあふれる行動も多かったようです。

「勉強はあんまり得意じゃなかったけど、友達とふざけている時が一番楽しかったな。お笑いの道に進みたいって、この頃から思い始めていたんだ」と語っています。このころから将来の道を決めていたのですね。

高校卒業が近づいた18歳のとき、憧れのいかりや長介さんの家に押しかけて弟子入りを志願し、ザ・ドリフターズ付き人として芸能界の道を歩み始めました。ザ・ドリフターズは音楽とコントを融合した笑いだったそうで、音楽好きの志村けんさんの趣向にあったようです。

付き人時代は月に5000円くらいの給料しかもらえず、苦しかったとお話しされています。「とにかく必死だった。いかりや(長介)さんに認めてもらいたくて、なんでもやった。絶対に諦めなかった」と回想していました。

上の写真は高校の卒業アルバムで、タートルネックで写ることは珍しかったそうです。これは目立ちますね!

けん

志村けんさんはどんなバンドが好きだったのかな?

のぞみ

ビートルズというイギリスのロックバンドよ!
高校2年生のころにの来日公演をわざわざ見に行くほどだったの!

20代(1970年~1979年)

引用元:X

志村けんさんは、1973年(当時23歳)でザ・ドリフターズに加入し、8時だョ!全員集合に出演します。翌年正式メンバーとなりましたが、荒井注さんの脱退による加入だったためその穴を埋めるのに苦労したそうです。

新メンバーとして加わった当初は、他のメンバーも不安を感じていたそうですが、みんなで協力して番組を盛り上げていったそうです。

実は加入前にお父さまが亡くなっておりそのショックもあってか、1975年当時25歳ごろ、「一人暮らしの部屋で泥酔し、ガス自殺をしかけたこともあった」とお話しされており、ぎりぎりの状況であったことがわかります。

上の画像は1970年代のものです。当時沢田研二さんと共演することがあり、その雰囲気をまねています。かっこいいですね!

志村けんさん
引用元:スポニチ

この苦境を脱したのが、1976年(当時26歳)の時に8時だョ!全員集合の少年少女合唱隊のコーナーで初披露した東村山音頭でした。

空回りする毎日にどうすれば人が笑うのかを必死に考え続けたそうです。そこで自分の地元の歌である東村山音頭を歌い踊り、大いにうけました。本人もここでやっと「肩の力がふっと抜けたと語っており、これが志村さんの快進撃の始まりとなります。

上の画像は1977年当時27歳のものです。東村山音頭はこの白鳥の衣装を着て歌っていました。この衣装はいろいろなバージョンに変わっていきますが、これだけでも一度見たら忘れられない姿ですよね!

志村けんさん
引用元:お笑いナタリー

当時はスタッフと打ち上げで飲んでも「俺は何もしてないよというふりをして家に帰ると必死でコントのヒントになるものを探した」そうです。「不安になるよりもコントのネタを探す方が安心できた」とも語っています。毎日必死に映画を観たり音楽を聴いたりしたそうですが、そのうち考えが煮詰まりふと「原点に帰ろうと思ったそうです。

そこでしゃべらずに好きな音楽だけで何かできないか?と考えたときに生まれたのがひげダンスだそうです。黒の燕尾服、鼻の下に付け髭の衣装で、コント仕立てのダンスを踊ります。軽快な音楽で様々な芸に挑戦し誰もが真似しました。

志村けんさんは、「面白いコントを作るには、自分が楽しいと思うことしかやらない」とお話しされており、ここでも音楽好きが活かされたというわけです。

上の画像は1979年29歳当時のひげダンスです。これだけで笑ってしまいそうですね!

けん

「最初はグー」を広めたのが
志村けんさんというのは本当?

のぞみ

本当よ!「8時だョ!全員集合」のコント内で使用したことで、
子どもたちに広まり、今では子供から大人までみんなが
使うようになったの。
きっかけは、仲間内で飲み代の支払いをじゃんけんで
決めようとなった時、全員酔っ払っていたため
「最初はグーで合わせよう」となったところかららしいよ。

30代(1980年~1989年)

志村けんさん
引用元:TBS

30代に入った志村けんさんはザ・ドリフターズのメンバーとして8時だョ!全員集合で中心的な存在となります。公開生放送という緊張感のある現場で、志村さんは生ならではのハプニングやアドリブにも強く、現場を盛り上げる存在でした。

志村けんさんはインタビューで、「お客さんの前で直接笑いをとれる喜びが格別だった」と語り、ドリフターズの一員として、「自分の芸風やキャラクターを自由に表現できたのはこの番組のおかげとも振り返っています。
この番組での活躍により、日本を代表するコメディアンとしての地位を確立していき、番組は1986年まで続きました。

志村けんさんは、紹介したほかにもこの番組で名物キャラクターやギャグを多く生み出しました。番組終了後もここでつちかったコントや笑いの精神を大切にし続けており、ドリフターズの一員として、またコメディアンとしての矜持を持ち続けていました。その思いは、彼の後の活動や発言からも感じ取ることができます。

上の画像は1980年代、志村けんさんが30代前半のころのものです。ドリフといえばこの衣装ですね!!

志村けんさん
引用元:クランクイン‼

翌年1986年には加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ、特番で志村けんのバカ殿様、翌々年の1987年には志村けんのだいじょうぶだぁが始まります。特に志村けんのだいじょうぶだぁは単独の冠番組で、多彩なオリジナルキャラクターが生まれます。

1987年当時37歳、志村けんのだいじょうぶだぁの第一回目で変なおじさんを演じます。頬に大きなほくろと一本だけ生えた毛、青ひげ、ラクダシャツに腹巻という奇抜な風貌が特徴です。女性に絡むコントが多く、問い詰められると「そうです、私が変なおじさんです」と決め台詞を言うのが定番でした。

志村けんさんは変なおじさんを、「自分の分身であり、願望」と語っています。それだけに思い入れは相当で、「自分で毎回演じようと思ったのはこのキャラクターだけと述べています。

だいじょうぶだぁ教は「だいじょうぶだぁ」と連呼する独特のギャグで、番組タイトルにもなった名フレーズ。コントの中で「だいじょうぶだぁ」と言いながら、どんな状況でも楽観的に振る舞うのが特徴です。

ひとみばあさんは正確な年代はわかりませんが、1980年代に登場しました。厚い瓶底メガネ、突き出た前髪、シミだらけの容姿が特徴の高齢女性キャラクターです。新宿に、ひとみという割烹料理屋があったそうで、ここのおばあさんをモデルにしたと言われています。居酒屋の女将やマッサージ師など、さまざまな職業で登場し、天然ボケや会話のかみ合わなさが笑いを誘いました。

志村けんのバカ殿様は志村けんさんが演じる“バカ殿”が家臣や腰元、ゲストを巻き込んで起こすドタバタ劇です。バカ殿のメイクについては、「高貴だから色は白いだろう、男らしく眉は太いだろう、上品だからおちょぼ口だろう、と考えすぎてああなった」と自身で説明しています。

志村さんは、「一応、代表作ですから。これを見せないと始まらないかな。お客さんにとって“それそれ!”“待ってました!”というのはすごく大切」と語り、ベタな笑いを大切にしていたことを明かしています。

上の画像は2025年2月に放送されたコント総集編の写真です。変なおじさんは中段左から3番目、だいじょうぶだぁ教は下段左から3番目、ひとみばあさんは上段左端、バカ殿様は下段左から2番目です。他にも思い出深いコントが多いですね!

けん

志村けんさんっていつもあんなに面白いのかな?

のぞみ

プライベートでは人見知りで、しゃべるのは苦手、
仕事の時は2時間黙ったままってことも多かったみたい。
意外よね!

40代以上(1990年~1999年)

志村けんさん
引用元:オリコンニュース

1998年48歳の時、笑福亭鶴瓶とタッグを組んだバラエティ、志村&鶴瓶のあぶない交遊録がスタートします。

志村けんさんと笑福亭鶴瓶さんがメイン司会を務めました。毎年1月2日に放送され、ゲストを交えたトークやゲームを展開する正月の名物番組として人気を博し、志村けんさんの新たな代表作に成長します

特にナインティナインを迎えた英語禁止ボウリングコーナーが有名で、地上波では珍しいお色気描写もあり視聴率が20%を超えることもありました。

上の写真は2010年に同コーナーが10周年を迎えた際の写真です。志村けんさんは、「10年前は若かったね~! 10年前は髪もありましたね(笑)。今は、尿酸値が危ないです。まぁ、これも人生かなぁ」と笑っていました。

志村けんさん
引用元:スポニチ

1996年の46歳ごろ、志村けんさんの死亡説が流れました。

当時、志村けんさんは自身の冠番組以外にはほとんど出演せず、素の姿を見せることが少なかったそうです。また、レギュラー番組が特番に変更され日中時間ができたことで、好きなゴルフに通いだすとその周辺にあった栃木県立がんセンターに通っているのでは?という憶測が飛び交うことになります。

こうして事態に視聴者が「最近見かけない」と感じやすかったようで、死亡説が信じられやすい状況になっていました。最終的には本人がテレビに出演しレポーターから志村さん、死んでいるんですか?」とインタビューされたそうです。もちろん「生きているよ」と笑って答え、事態は収拾したそうです。志村けんさんらしい解決の仕方ですね!

志村けんさんは生涯に一本だけ映画に出演します。それが鉄道員(ぽっぽや)です。

1999年当時49歳で公開されたこの映画では、筑豊の炭鉱から北海道・幌舞にやってきた酔いどれの臨時工・吉岡肇という役を演じました。彼は妻と娘に逃げられ、残された一人息子を育てるために働くものの、酒癖が悪く、地元の炭鉱夫たちとトラブルを起こすという設定です。

酔っ払った吉岡が地元の炭鉱夫たちとスト破りを巡って激しい口論と揉み合いとなり、駅長の佐藤乙松(高倉健さん)と運転士の仙次(小林稔侍さん)が仲裁に入ります。その後、志村さん演じる吉岡は酔っ払いながらも、父親としての矜持や哀愁を見せ、家まで送られる途中でコミカルな演技を披露します。

この出演シーンはわずか5分ほどですが前半はシリアスな演技、後半は志村さんらしいコミカルな演技と短い中に彼の持ち味が凝縮されています

上の写真は撮影中のショットです。志村けんさん、とても嬉しそうですね!

けん

志村けんさんはなんで映画に出たの?

のぞみ

高倉健さん本人から直接オファーされて
断り切れなかったんですって!

50代以上(2000年~2020年)

引用元:Instagram

これまで志村けんさんはお笑い芸人は芸人に徹するべき、という信念があり、コント一本で活動することに重点を置いていました。しかし次第にゲストとしてトーク番組に登場する機会が多くなると素の自分が出せるようになりました。

するとやりたいことをやろう、やってみることが大事との思いが生まれてきます。

その一つが天才!志村どうぶつ園でした。2004年54歳で始まったこの番組では、志村けんさんは園長として番組をけん引し動物たちや共演者とのふれあいを心から楽しんでいました。特に、動物と接する際はみんな家族という考えで接し、現場でも温かい雰囲気を大切にしていたといわれています。

番組内でのロケや動物とのふれあいには強い情熱を持っており、たとえば生前最後のロケとなったチンパンジーのプリンちゃんとの自転車ロケでは、プリンちゃんと一緒に自転車で走りたいという思いが強く、動物への深い愛情と好奇心が伝わる姿が印象的でした。

また、共演者やスタッフからは「志村園長と一緒にいると、みんなが自然と笑顔になるたくさんのことを学ばせてもらった」と語られており、志村さん自身も番組を通じて動物の魅力や命の大切さを伝えることにやりがいを感じていたとされています。

上の画像は天才!志村どうぶつ園の公式インスタグラムの投稿です。志村けんさんが亡くなられた2020年に投稿されました。いい写真ですね!

このころ志村けんさんは忙しい芸能活動と並行し三味線を始めます

きっかけは、三味線奏者の上妻宏光さん紙の舞という曲を聴いたからだそうです。この曲にほれ込み本人に直談判して教えてもらったそうです。非常に難しい曲で初め上妻宏光さんはためらったそうですが、志村けんさんの熱意もあり短時間で弾けるようになったそうです。志村けんさん主催の舞台でも何度かこの曲を演奏しているようで、非常に強い思い入れがあったことがうかがえます。

上の画像は2016年当時66歳で出演したCMです。師匠の上妻宏光さんと共に見事な腕前を披露しています。

志村けんさん
引用元:週刊女性プライム

2015年65歳の時に、母志村和子さんが亡くなります。たびたびブログにもお母さまへの感謝を伝える文章を載せたりしていました。和子さんも生前一番のファンと公言しており仲のよさがうかがえます。後に「母ちゃん有難う御座います 私を産んでくれて有難う 天国からまだまだ応援 見守って下さい」とコメントを発表しました。

上の画像は2007年3月に撮影されたものです。志村さんの穏やかな笑顔が印象的です。

志村けんさん
引用元:Amazon

50から60代にかけ志村けんさんは健康意識が大きく高まり、特に喫煙習慣の見直しや健康維持への努力を重視するようになりました。長年にわたり1日60本ものタバコを吸うヘビースモーカーで、お酒も大好きだったことからご本人も健康リスクを自覚していたと考えられます。特に食生活には気を使っていたようで朝食は自分で作っていました。

67歳の誕生日には「今年も健康に気をつけ頑張ります!」とSNSで発信しており、年齢を重ねるごとに健康で長く活躍したいという思いが強くなっていたと考えられます。

上の画像は志村けんさんが発売したレシピ本です。意外なジャンルの出版ですね

70歳(2020年)

志村けんさん
引用元:スポニチ

49歳で出演した映画鉄道員(ぽっぽや)で手ごたえを感じたのか、俳優業にも挑戦します。ドラマや映画など役者業にも積極的に取り組むようになります。

2014年当時64歳の時にとなりのシムラが始まります。この番組はコントとドラマの中間のような構成で、普通のおじさんや父親など、よりリアルで哀愁を帯びたキャラクターを演じることが特徴です。観る人に温かさや切なさを伝える内容となっていました。

これが縁となり2020年70歳でNHKの朝ドラエールにも出演します。

撮影現場では、緊張感のあるシーンが多く、カットごとに監督と演技を確認しながら、話し合いを重ねて臨んでいたといいます。「ちょっと意地悪っぽいところもある。いつもの志村けんらしくない。こんなこともやりますよってところを見てもらえれば、うれしいね」と語り、重厚な役柄も新たな挑戦として楽しんでいたようです。

志村けんさん
引用元:テレ朝POST

そして志村けんさんは70歳の誕生日を迎えたころ、新型コロナウイルスにかかります。

志村けんさんは、2020年3月17日に倦怠感(強い疲れ)を感じ、自宅で静養を始めました。二日後に発熱と呼吸困難の症状が現れ、翌20日に訪問診察を受けた医師の判断で東京都内の病院に搬送されます。すぐに重度の肺炎と診断されて入院します。

3日後の23日、新型コロナウイルスの検査で陽性が判明し人工心肺装置(ECMO)などを使いながら治療が続けられましたが病状は回復せず、29日午後11時過ぎ肺炎のため東京都内の病院で亡くなりました。享年70歳でした。

志村けんさんは人工呼吸器をつけた段階で意識を無くしたようで、自分が新型コロナウイルスにかかったとはわからず亡くなったようです。感染経路は特定されておらず、発症から亡くなるまで約2週間という急速な経過でした。

志村けんさんの急逝は速報が流れ、共演者の号泣や当惑する様子が報道されました。また没後すぐ各テレビ局が追悼番組を放送し、軒並み高視聴率を記録しました。志村さんの国民的な人気と影響力の大きさがうかがえるできごとでした。

生前志村けんさん「死ぬときは舞台の上で笑いに包まれていたい」と語ったそうです。自宅静養を始めた日は志村でナイトを収録するためにテレビ局を訪れていたそうで、最後まで笑いとともにあった人生と言えそうです。

上の画像は生前最後のVTR出演となったあいつ今何してる?のものです。

志村けんのプロフィール・SNS

志村けんさん
引用元:MANTANWEB

プロフィール

  • 名前:志村けん(しむらけん)
  • 本名: 志村康徳(しむらやすのり)
  • 生年月日:1950年2月20日
  • 年齢:70歳没(2020年3月29日)
  • 出身地:東京都東村山市
  • 血液型:A型
  • 趣味:健康
  • 特技:三味線
  • 所属事務所:株式会社イザワオフィス

SNS

けん

志村けんさんは本名じゃないんだね。

のぞみ

お父さんの名前、
憲司(けんじ)さんから一字もらって憲(けん)にしたみたいよ!

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