菅原文太さんの長男・菅原加織さんは2001年10月24日未明、下北沢の踏切で列車と接触し31歳で亡くなっています。通話中だったとの情報や酒気の目撃談が伝えられ、文太さんは「ただの事故」とは受け止めきれず、以後もしばしば霊園に通って“息子との時間”を過ごしたとされます。
次に、高倉健さんとの関係は同じ東映の看板俳優として互いに異なる任侠像を体現しつつ、文太さんが健さんを立てる現場エピソード(負傷時に撮影中止を直言)に象徴される深い敬意で結ばれていました。
若い頃が「イケメン」と評される理由は、178cmの均整の取れた体躯と端正な顔立ちに、モデル・劇団四季・新東宝/松竹/東映で鍛えた芯の強さと存在感が重なり、外見と生き様が一致して魅力が増幅したためです。
この記事でわかること
- 長男・菅原加織さんの事故の日付・場所・状況(31歳で逝去)
- 事故後の文太さんの心境と“霊園に通う”エピソード
- 高倉健さんとの関係性(東映同僚・任侠像の違い・共演本数の目安)
- 現場で健さんを最優先した“撮影中止を直言”の逸話
- 若い頃が「イケメン」と言われる決定要因(体躯・顔立ち・芯の強さ・存在感)
【画像】菅原文太の息子は事故死?
2001年10月24日、菅原文太さんの長男である菅原加織さんが、東京都世田谷区北沢の小田急小田原線の踏切内で、上り電車に撥ねられ、午前1時すぎに死亡が確認されました。享年31歳でした。
事故当時、菅原加織さんは携帯電話で話をしていたといいます。また、「酒を飲んでたようだ」という目撃証言もあったようです。
わー菅原文太の息子イケメンさんじゃん!て思ってググッたら、13年前に下北沢の踏切で事故死してはった…俳優さんだったんだね、知らなかった。。 pic.twitter.com/EPLKLzXJA2
— 🍉tina🍉 (@tinasuke) December 21, 2014

親しい関係者は「当時、加織さんは私事で悩んでおり、文太さんもただの事故死としては受け取れなかったようだ」と明かしました。この事故で菅原文太さんは1年間話ができなくなってしまったと言われています。
愛する息子を突然亡くしてしまったら、話も出来なくなりますよね。辛すぎる出来事でした。
ギモンくん息子さんが亡くなってから、菅原文太さんは、どんな生活を送っていたのかな?
カイケツさん菅原文太さんは、数カ月に1度は息子さんの眠る霊園に訪れて、“息子との時間”を過ごしていたそうだよ。そして、その時が来たら「加織さんの眠るところで」と周囲に告げていたんだって!
菅原文太と高倉健との関係は?
菅原文太さんと高倉健さんは、2人とも同じ映画会社、東映の専属であり、もっぱら前科者のヤクザの役を得意としていました。菅原文太さんにとって高倉健さんは、常に「前を走っていた」スターでした。

もっともその雰囲気は対照的であり、高倉健さんがもっぱら任侠精神の権化のような「美しき」役柄だったのに対し、菅原文太さんは、文字通り「仁義なき」極道役がほとんどでした。2人が共演した映画は、11本とされています。
高倉健さんは、菅原文太さんの亡くなった、わずか18日前にこの世を去っています。享年83歳でした。日本映画に大きな足跡を残したお2人の共演を、もっとたくさん見たかったですね!
ギモンくん実際に2人が共演した時は、どんな関係性だったのかな?
カイケツさん2人の間では、菅原文太さんが、高倉健さんを立てていたんだって。
撮影中、高倉健さんが2階から拳銃で撃たれて壁にぶつかるはずが、壁のないところに落ちてアゴのあたりに怪我をしてしまった時、撮影は一時中断になったけど、監督が、その間に他のシーンの撮影を再開すると言ったら、菅原文太さんが、『ふざけたこと言うんじゃねえよ。健さんがケガしたのに撮影なんかできるわけねえだろう』って怒ってやめさせたんだって!心から尊敬していたんだね!
【画像】菅原文太は若い頃イケメン!
菅原文太さんが“イケメン”と評される最大の理由は、外見の整った美しさに加えて、時代を背負うような生き方の芯の強さと存在感にあります。
178cmの長身に鋭い目元、学生時代から中原淳一氏のモデルを務めた端正な顔立ちはもちろん、若い頃から一貫して「己の信念に従う」姿勢を貫いてきたことが、唯一無二の魅力を放ちました。
劇団四季やモデル活動、新東宝・松竹・東映と舞台を変えながらも、自分のスタイルを崩さず、下積みを重ねて大スターへと登り詰めた姿に、人々は“男の色気”を感じたのです。
特に『仁義なき戦い』で見せた鋭くも温かみのある眼差しは、見た目以上に内面の強さを映し出していました。若き日の端正さ、俳優としての覚悟、晩年の穏やかな生き様まで、すべてが一本の筋でつながる――それこそが、菅原文太さんが今も“真のイケメン”と呼ばれる理由です。
幼少期・10代(1933年~1953年)
菅原文太さんは、宮城県仙台市出身です。子どもの頃は「イモ太」というあだ名だったそうです。
高校は、県内屈指の名門校、県立仙台第一高校に進学し、新聞部に所属していました。
引用元:X、X早大在学中に中原淳一先生のモデル→劇団四季入団→大学中退→ファッションモデル→新東宝入社。菅原文太さんの俳優デビュー前の経歴って、華やかすぎませんか?
— 島倉千代菊 (@wataridori333) October 7, 2017
写真はモデル時代の菅原文太さんと大内順子さん。 pic.twitter.com/wsBEACq87Nこちらは、中原淳一先生のモデルの大内順子さんと岡田真澄さん。完璧...
— l.esprit.mao.asada🍉 (@lesprit_mao_26) April 20, 2023
それいゆ Magazine - 1950sより
>早大在学中に中原淳一先生のモデル→劇団四季入団→大学中退→ファッションモデル→新東宝入社。
>写真はモデル時代の菅原文太さんと大内順子さん。#中原淳一 pic.twitter.com/hptEt1Put8
そして、1952年(当時19歳)には、早稲田大学第2法学部へ入るも中退してしまいます。しかし、178センチの長身と端正な顔立ちが画家・中原淳一さんの目にとまり、モデルになったことがきっかけで芸能界入りを果たします!
上の画像は菅原文太さんが中原淳一さんの「それいゆ」でモデルをしていた時のものです。とても優秀だったんですね!きっとモテモテだったんだろうと想像つきますね!
ギモンくんあまりプライベートが明かされてない菅原文太さんだけど、小学生時代はどんな少年だったのかな?
カイケツさん小学校の頃は、時代だったこともあって、軍国少年だったんだって!
ゲートルを巻いて、戦闘帽を被って、竹槍持っていたそうだよ!
20代(1953年~1963年)
菅原文太さんは、1954年(当時21歳)に旗揚げしたばかりの劇団四季に1期生として入団します。そして、初期の作品に端役として多数出演しています。
1956年(当時23歳)、東宝の映画『哀愁の街に霧が降る』でデビューを果たし、1957年(当時24歳)、岡田眞澄さん、旗昭二さん、池田二郎さんら総勢8名で、日本初の男性専門モデルクラブ「SOSモデルエージェンシー(ソサエティ・オブ・スタイル)」を設立します。
引用元:X#菅原文太
— ねろおやぶん (@nerooyabun1) November 28, 2018
ファッションモデル時代の文太さん。
やっぱりカッコいいなあ! pic.twitter.com/SqAcxTP1vK
モデル時代の菅原文太さん、とってもカッコいいですね!スーツがとても似合ってます!
引用元:X#HBD
— 若林伸重 (@wakabayashi1968) August 15, 2021
菅原文太 Bunta Sugawara
『白線秘密地帯』(1958) pic.twitter.com/vx2BECXsSS
1958年(当時25歳)、新東宝に入社します。そして、同年『白線秘密地帯』で本格映画出演します。長身の新人2枚目スターの集団「ハンサムタワーズ」の1人として、吉田輝雄さん、高宮敬二さん、寺島達夫さんらと共に活躍します!
しかし、当時の新東宝は経営不振で、低予算映画が主力路線だったため、世間的な知名度はそれほど高くはありませんでした。「ハンサムタワーズ」は、すごい一団ですが、菅原文太さんなら全く違和感無いですね!ピッタリです!
引用元:X僕的には花形敬は、『安藤組外伝 人斬り舎弟』で菅原文太が演じていた花形敬をモデルにした人物の方が好きかな~(^_^;) pic.twitter.com/nj5uxP49cX
— やーさん (@ya_san8931) May 1, 2017
菅原文太さんは、1961年(当時28歳)に新東宝が倒産後、「ハンサムタワーズ」のメンバーと共に松竹へ移籍します。メロドラマやホームドラマなど、女優主体の企画が多い松竹では脇役を演じることが多く、厳しい状況が続いたようです。
暴力団「安藤組」の元組長、安藤昇さんが自身の自叙伝を映画化しまし、菅原文太さんは、子分に抜擢されます。しかし「女優王国」が売りだった松竹に「ヤクザ映画」は馴染めず、すぐに撤退することになります。
20代は、なかなか日の目に当たることがなく、長い長い下積みを過ごしました。
ギモンくん「ハンサムタワーズ」って、いったいなんなんだろう??
カイケツさん1958年に新東宝が完成させた東京タワーにちなんで、新人俳優を売り出した作品なんだって!みんな背が高くて、かっこいいからピッタリだね!
30代(1963年~1973年)
菅原文太さんは、1967年(当時34歳)東映へ移籍します。
安藤昇さんが東映の俊藤浩滋プロデューサーに引き抜かれたのをきっかけに、菅原文太さんも東映への移籍を決めたそうです。初めて東映京都撮影所に足を踏み入れた時、「こここそが、俺の生きる場所だと直感した」といいます。
引用元:X安藤昇カレンダー【3月】菅原文太とコップ酒を酌み交わす安藤昇。 pic.twitter.com/P7Aj3s85Qz
— 篠崎真紀 (@shinozakimaki) March 2, 2018
これが菅原文太さんの転機となり、大スターになっていきます!親しい新聞記者に「やっぱり、役者は上に行かないと寂しいよなぁ」と本音を漏らしていた菅原文太さん。ここから起死回生ですね!

菅原文太さんにチャンスが訪れたのは、移籍から2年後のことで、『現代やくざ 与太者の掟』(1969年、降旗康男監督)の主役に抜擢されました!
この映画を皮切りに主演作が続き、深作欣二監督、中島貞夫監督、鈴木則文監督らの作品にも多数出演します。
3人とも、撮影所を歩く菅原文太さんの、ギラギラと光る目に飢えを感じ、それを俳優としての魅力と捉えたことだそうです!渋さもまた、最高にかっこいいですね!このころの菅原文太さんは、まさにギラギラ光る目でしたね!
ギモンくん当時の安藤昇さんと菅原文太さんは、どんな関係だったのかな?
カイケツさん菅原文太さんは、安藤昇さんがやっていた「アスコット」というお店に毎日来て、カウンターの隅っこで飲んでたんだって!
出世払いで飲んでたそうだよ!
40代以上(1973年~)
菅原文太さんは1973年(当時40歳)から始まった『仁義なき戦い』シリーズで、東映を代表するスターの1人になりました!『仁義なき戦い』は、映画史に残る作品にもなり大ヒットし、菅原文太さんの代表作になりました!
シリーズは続き、3作目となる『仁義なき戦い代理戦争』(1973年9月)の公開に先駆け、東映が実施した所属俳優の人気アンケート調査では、1位が菅原文太さん、2位高倉健さん、3位鶴田浩二さん、4位安藤昇さん、5位渡瀬恒彦さんでした!名俳優さん達を差し置いて1位に選ばれるなんて、凄すぎますね!
1975年(当時42歳)に始まる『トラック野郎』シリーズ(一番星・星桃次郎役)もヒットしています!


そして、長年映画に専念してきた菅原文太さんですが、1980年(当時47歳)に大河ドラマ『獅子の時代』に主演します。その後、大河ドラマでは『武田信玄』『徳川慶喜』『元禄繚乱』『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』に出演しています。
活躍の場を、映画から、テレビ、ドラマに広げていった菅原文太さん!長年の下積みがあったからこそ、様々な役柄を見事に演じ切っていましたね!

菅原文太さんは1998年(当時55歳)から、岐阜県大野郡清見村(現在の高山市清見町)に移住されました。もともとは「オークヴィレッジ」代表の稲本正さんから紹介されて、別荘として買ったそうです。移住した理由として、「東京の空気を吸いすぎた」と語っていました。
また、消防団の応援団の一員としても活動していました。菅原文太さん自身が、岐阜県清見村で台風の接近に伴う避難の際に消防団員に助けられた経験があり、消防団の存在を再認識したそうです。
そんな中、2001年(当時68歳)にジブリ映画「千と千尋の神隠し」で釜爺の声を担当します。ずっと耳に残るような、大きなインパクトを残して、たくさんの人々に愛されましたね!
アニメをほとんど観たことが無かったという菅原文太さんですが、監督にどういう風にやればよいか相談したそうです。そして監督からは「地でやってくれ」と言われたて、その地が、まさに窯爺にピッタリでしたね!
踏切事故で息子さんを亡くしてから仕事をしたくないと語っていた菅原文太さんですが、2003年(当時60歳)には、テレビドラマ『高原へいらっしゃい』で復帰を果たします。
また、同年公開の映画『わたしのグランパ』で9年ぶりで最後の主演を果たします。
2007年(当時74歳)に膀胱癌が判明し、筑波大学附属病院にて、手術せずに放射線や陽子線治療による膀胱温存療法を受けます。人工膀胱を付けて生き延びたとしても「そんな暮らしは楽しくないな」と思い、温存治療を受けたそうです。
2009年(当時66歳)山梨県韮崎市で耕作放棄地を使って農業を始めます。当時、俳優業は「半分引退した」と語っていました。
2012年11月13日、(当時80歳)菅原文太さんが名誉顧問を務める民間非営利団体「ふるさと回帰支援センター」の設立10周年記念講演の席上で、56年に及ぶ役者生活にピリオドを打ち引退したことを発表しています。
しかし、引退宣言以降もラジオレギュラー番組『菅原文太 日本人の底力』のパーソナリティ、テレビドキュメンタリーのナレーターやCM出演などは務めていました。同年7月公開のアニメ映画『おおかみこどもの雨と雪』にも声優として出演しましたが、結果的にこれが遺作となりました。
菅原文太さんは、2014年11月13日に定期健診で病院へ行きそのまま入院されました。11月28日午前3時、転移性肝がんによる肝不全により東京都内の病院で亡くなりました。享年81歳でした。
ギモンくん「わたしのグランパ」は、アクションシーンもあったけど、当時70歳の菅原文太さんは、体力とか大変だったのかな?
カイケツさん「もっと激しいものかと思ったら、意外とそうでもない。軽い運動をした後の疲れくらいしか残らなかったよ」語っていたよ!
かっこよすぎですね!
菅原文太のプロフィール・SNS
- 名前:菅原 文太(すがわら ぶんた)
- 生年月日:1933年8月16日
- 年齢:享年81歳(2014年11月28日逝去)
- 出身地:宮城県
- 血液型:O型
- 趣味:読書、パソコン、格闘技観戦
- 所属事務所:東映

著書・写真集
著書
- 1982年:対談集『もっと自由にもっと自在に : 菅原文太とサムライたち』
- 2005年:対談集『六分の侠気 四分の熱 菅原文太と24人の男たちそして忠治』
- 2013年:対談集『ほとんど人力』
- 2015年:対談集『日本人の底力』
- 2017年:半藤一利と対談『仁義なき幕末維新 われら賊軍の子孫』
写真集
- 1974年:菅原文太―野良犬の怨念
- 1982年:菅原文太―野良犬の怨念
- 2015年:高倉健と菅原文太 ここに漢ありけり
ギモンくん読書が趣味という菅原文太さんだけど、普段はどのくらい本を読んでいたのかな?
カイケツさんどんなに深酒しても寝る前に読書をするほどなんだって!
10日以上のロケの時は最低20冊は持っていくそうだよ!
菅原文太の息子の事故、高倉健との関係と若い頃の魅力まとめ
- 2001年10月24日未明に長男の菅原加織が下北沢の踏切事故で死亡し享年31である
- 事故時は携帯通話中で酒を飲んでいたとの目撃談がある(証言)
- 私事の悩みがあったとされ文太は単なる事故死とは受け取れなかったという(関係者談)
- 息子の眠る霊園へ数カ月に一度通いそこで過ごす時間を大切にしていたとされる
- 文太は最期は息子の眠る場所でと周囲に語っていたとされる
- 文太と高倉健は東映の同僚俳優で任侠系作品を得意としていた
- 高倉健が任侠の美学を体現した役柄に対し文太は「仁義なき」タイプの極道役が多かった
- 両者の共演作は11本とされ現場では文太が健を立てる姿勢が語られている
- 撮影で健が負傷した際に文太が他シーンの撮影再開を止めさせた逸話が伝わっている
- 高倉健は文太の逝去の18日前に亡くなり二人は日本映画界に大きな足跡を残した
- 文太が“イケメン”と評される理由は178cmの長身と端正な顔立ちに加え芯の強さと存在感である
- 中原淳一に見出されモデルを経て芸能界入りし若年期から品格ある佇まいを示している
- 長い下積みののち東映移籍を転機に主役抜擢が続き眼光の鋭さが俳優としての魅力となった
- 『仁義なき戦い』で東映の看板スターとなり人気調査で同時代の名優を抑え首位を獲得している
- 『トラック野郎』や大河ドラマ出演など映像分野を横断し幅広い層の支持を得ている
- 晩年は岐阜移住や農業支援にも取り組み『千と千尋の神隠し』の釜爺など声の演技でも存在感を示した
- 引退後も語りやナレーションで活動し2014年に転移性肝がんによる肝不全で逝去した
- 息子への思いと仲間への敬意を胸に貫いた生き様が作品とともに語り継がれ“真のイケメン像”として今も評価されている


