水木しげるが左腕を失ったのは、激戦地ラバウルで爆撃に遭い出血多量となり、血液型が分からず輸血もできず“延命のための切断”に踏み切られたからです。
麻酔なしの手術だったものの、当時はマラリア高熱で意識が朦朧としており痛みの記憶は薄く、終戦翌年に国立相模原病院で再手術を受けています。
妻・布枝さんとの出会いは両親が勧めた見合いです。10歳年下で島根・安来出身の布枝さんと、見合いからわずか5日で挙式に至った“超スピード婚”でした。
幼少期は言語発達が遅く就学でもつまずき、戦地では理不尽ない暴力と飢え、戦後は紙芝居・貸本不況で家賃滞納と質屋通い――それでも右腕一本で描き続け、「墓場鬼太郎」を皮切りに道を切り開きます。両親の寄り添いと、家計が厳しくても献身的に支えた布枝さんの存在が、逆境を創作へ転じさせた原動力でした。
この記事でわかること
- ラバウルで左腕を失った具体的な経緯(爆撃〜麻酔なし切断〜再手術)
- 妻・布枝さんとの見合いの流れと「出会いから5日で挙式」の真相
- 幼少期〜戦中戦後にかけての“苦労人”エピソードと転機
- 「墓場鬼太郎」から広がる創作の道と妖怪ブームへのつながり
- 家族(両親・布枝さん)の支えが創作に与えた影響
【画像】水木しげるが左手を失った原因は?
水木しげるさんは戦争中にラバウル(現パプアニューギニア・ニューブリテン島北東部)で左腕を失いました。
敵機の爆撃で左腕に出血多量の重傷を負い、さらに血液型を忘れてしまっていたので、上官や仲間からの輸血も不可能でした。止血しますが左腕に死斑が出てしまい、延命処置として左腕の切断手術を受けることになったそうです。

この手術はなんと麻酔無しで行われました。通常の状態だと、のたうち回るどころでは済まない激痛に襲われると思われますが、この時の水木さんはマラリアを発症し高熱を出していて、意識が朦朧としていたので「割合痛みを感じた記憶は無い」とのことです。
軍医による左腕の切断手術は、あくまで応急処置的なものだったので、終戦の翌年に国立相模原病院で本格的手術を受けたそうで。
水木さんのお父さんは片腕で出来る仕事がないものかと知恵を絞り、お母さんは片腕を使わずに家事をしていたそうです。片腕での家事は非常にやりづらそうで「息子はずっとこの不便さを抱えて生きていくのか」と思ったら余計に悲しくなりそうですが、そうすることがお母さんなりの寄り添い方だったのかもしれません。
そんな中で水木さん本人は「右腕があれば絵を続けられるかもしれない」と希望を持っていられたとのことで、精神的な強さがすごいですね。
ギモンくん水木しげるさんの左腕に出たという死斑って何だろう?
カイケツさん流れなくなった血液が自重で沈むことで、赤紫や青紫の斑点が地面に近い部分に出てくることをそう呼ぶみたい。
水木しげると妻の馴れ初めは?
水木しげるさんは、40歳近くまで独身だったことを心配するご両親の強い勧めでお見合いをすることになりました
お見合い相手は現在の島根県安来市出身で水木さんより10歳年下の布枝(ぬのえ)さんという方です。間に立ったのは布枝さんの叔父(母の弟)で、この叔父の奥さんが水木さん一家の遠縁だったそうです。

いくらマイペースさが売りの水木さんも、結婚については焦りがあったのか、このお見合い相手を逃したら次は無いと考えて「普通の会社員の2倍稼いでいる」と見栄を張ったのだとか。
洗練された都会人を装うつもりが、気の緩みでうっかり方言を連発してしまうなどの出来事もあり、見栄を張る作戦が上手くいったのかは分かりませんが、無事にお見合い話はまとまっていきます。
驚きなのが、お見合いから結婚式の間がわずか5日だったということです。
婚姻届提出だけなら場合によっては1日でも可能ですが、結婚式をする場合は式場選び・招待客のリストアップ・衣装選び・式場との打ち合わせなどで時間がかかります。半年~1年前から準備を始めるのが一般的なので、出会って5日で式というのは異例のスピード婚と言えます。
高給取りと聞いていたはずの結婚相手が、実はしょっちゅう質屋通いするほど貧しいと知ったら逃げ出したくなる人も少なくないと思いますが、布枝さんは水木さんの熱心な仕事ぶりを尊敬して、漫画のアシスタント役もこなしながら支え続けました。
水木さんが亡くなると「53年間ありがとうございました。まもなく私もついていきますので、あの世でもよろしくお願いします。楽しみにしています。」と語りました。
ギモンくん今でも40歳間近で初めての結婚っていうのは遅いほうだけど、この時代の価値観だとどうだったんだろう?
カイケツさん戦後の男性の平均初婚年齢が26歳前後だと考えると、かなりの晩婚だと思うよ。当時の39歳は子供が中学生になってる人も多いくらいの年齢だから、ご両親の心配も分かるような気がするね。
【画像】水木しげるは若い頃苦労人!
水木しげるが“苦労人”といえるのは、幼少期から戦中戦後まで幾重もの逆境をくぐり抜けて創作を続けたから。言葉の発達が遅く就学もつまずき、高等小卒後は職を転々します。21歳でラバウルに送られ理不尽ないじめと飢えを耐え、生還後は左腕を失う重傷を追ってしまいました。
戦争から帰国後も紙芝居の衰退と貸本不況で家賃滞納・質屋通い、原稿料の未払いにも悩みましたが、それでも描くことをやめず、「墓場鬼太郎」から道を切り開き、のちの妖怪ブームへ。度重なる困難を粘り強さで跳ね返した、生涯一貫の苦労人であると言えます。
幼少期・10代(1922年~1942年)
水木しげるさんは、大阪府西成郡(現・大阪市住吉区)で3人兄弟の次男として生まれました。
漫画家さんというのは絵も言葉も得意でないとなれない職業だと思いますが、幼い水木さんの言葉の発達は遅く、初めて言葉が出たのは3歳の時でした。上のリンク先の画像はその頃のものです。幼い子供特有のややぽっちゃりした感じがかわいらしいですね。
子供の成長は個人差が激しいものですが、言葉については1歳半で単語、2歳で2語文(「ワンワンいる」など)が話せるのが成長の目安とされています。ちなみに水木さんが初めて話した言葉は「ネンコンババ(猫のフン)」だったのだとか。
妖怪に興味を持つようになったのは、水木さんのおじいさんの代のお手伝いとして子供の頃に家に出入りしていたおばあさんの影響だと語っています。「天井のしみは『天井なめ』というお化けがつける」「古いぞうきんを放っておくと『白うねり』になる」といった話をよく聞かせてくれたようです。
彼女に連れて行かれた正福寺というお寺で「死んだらこういう所に行くんだ」と見せられた地獄極楽絵図が衝撃的で、その絵がきっかけで別の世界の存在を強く印象づけられたのだとか
初めての言葉「ネンコンババ」のあとは4歳まで話さず、世の中の物は全て食べられると思って石までかじったり、通行人に興味を持ってどこまでもついていって、よく迷子になっていたという水木しげるさん。
他人から見ると面白ネタの宝庫のような幼少期ですが、ご両親は同年代の子供達の中に個性派すぎる水木さんを参加させることを不安に思ったのか、3人兄弟のうち水木さんだけ幼稚園に通いませんでした。
小学校は1年遅らせて通うことになり、それも好きなだけ寝てから登校するため1時間目の算数の授業にほとんど出られず、よく0点を取っていたと語っています。
ご兄弟の中で水木さんだけ違ったのは、小学校卒業後の進路についても同じで、お兄さんと弟さんは中学校へ、水木さんは高等小学校へ行きました。
戦前の学校制度は今とは異なり、中学校は経済力に恵まれたエリートの男子だけが通える学校でした。5年制なので、今で言うと中高一貫校に近いようです。
一方の高等小学校は主に2年制で、そう言われると水木さんだけ要領が悪いような印象を受けるかもしれませんが、高等小学校の教頭先生に絵を褒められて公民館で個展を開くなど、得意分野で才能をどんどん伸ばしていました。
16歳の水木さんというと高等小学校卒業後の就職先をいくつもクビになり、学校に通おうとしても「定員50名・受験者51名」という低倍率の学校すら不合格になり、ご両親の勧めで夜間中学校に通っていた頃と思われます。
ギモンくん小さい子供の初めての言葉って、「お父さん・お母さん」や物の名前が多いと思うんだけど……。「ネンコンババ(猫のフン)」っていうのはどういう状況で言ったんだろう?
カイケツさん自分が布団に粗相したのを、飼い猫のせいにしようとして出た言葉みたいだよ。初めての言葉で猫に濡れ衣を着せるっていうエピソードは他ではなかなか無いだろうね!
20代(1942年~1952年)
青年時代の水木さんは、昼間は新聞配達の仕事をして夜は学校に通い、休日は動物園や宝塚歌劇に足を運ぶ生活をしていました。

そうしているうちに日本がイギリスやアメリカやオランダとの間で開戦し、水木さんも20歳を迎えて徴兵検査を受けました。体は頑健ながら、近眼のため乙種合格で現役入隊はしませんでしたが、戦争が激化して招集対象者の枠が広がっていき21歳で召集令状が届いて、鳥取歩兵第40連隊留守隊に入隊します。
マイペースすぎるのと、行動が鈍いのとで「使い道が無い」と判断され、宿舎の広い庭を連日何周も走らされ、その辛さから配置転換をしつこく頼んだら「北がいいか南がいいか」と聞かれたそうです。
寒さが苦手という理由で南を選び「九州あたりに配属になるのだろうか」と思っていたところへ、激戦地のニューブリテン島ラバウル行きが決定した時は、目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けたと語っています。
異動命令直後に2泊3日の外泊が許されて里帰りしましたが、ご両親も水木さんも何も話せなかったのだとか。平和な世の中を生きている現代の日本人には想像もつかない心境ですが、無理をして明るく振る舞うのも痛々しいですし「行きたくない」と駄々をこねても現実は変わらないと思ったら、言葉が何も出てこないのも分かるような気がしますね。
上の画像は、ラバウル出征前に見送りに来たお父さんと撮った写真です。「何も言わなかったが、父が『生きて帰ってこい』と思っていることは伝わった」と話しました。
水木さん所属の部隊は敵潜水艦の攻撃をかわしつつ、なんとかラバウルに到着しますが、その後も散々な生活が続きます。
「風変わりで役に立たない」と元から上官に目を付けられていた水木さんは「ビンタの王様」というあだ名が付くほど酷い目に遭っていたのだとか。たまたま茨城県出身の上官が多く、水木さんが彼らの方言を聞き取れないというだけでも鉄拳制裁の口実にされて連日理不尽にいじめられたそうです。
やがて水木さんは決死隊の兵隊の1人としてバイエンに配属され、居眠りの罰で夜勤の当番をすることになりましたが、自然の風景に見惚れて上官達を起こす時間を5分過ぎ、敵の攻撃に遭ってしまいます。機銃掃射という、なぎ払うような射撃で上官達は全滅しました。
水木さんはふんどし一丁で数日間ジャングルを逃げ惑って、奇跡的に生還を果たしますが、それを喜んだのは仲間達だけで上官からは「なぜ死なずに逃げた」と責められ、朗らかに振る舞ってきた水木さんもさすがに塞ぎ込むようになったそうです。
左手を失った後・・
こちらの画像は、水木しげるさんが左腕を失って軍務を解かれた24歳の時です。左腕を失った理由については後述します。
1945年の初め頃に他の傷病兵と後方に送られ、以前よりは余裕が出来て島の原住民と交流するようになりました。他の兵隊と違って威張らない水木さんは原住民から気に入られて、集落の仲間として受け入れられました。
戦争で日本が負けて、捕虜収容所で本国送還の順番待ちをしていると、島の原住民から「農地を分けるから一緒に暮らさないか」と誘われたそうです。水木さんは永住を真剣に考えますが、「家族に会ってから決めても遅くない」という上官からの助言で帰国を決意しました。
帰国後は腕の本格的手術を待ちますが、戦後の医者不足・物資不足でなかなか順番が回ってこないので帰郷して養生することになりました。
ご両親は次男を失った不幸を悲しみますが、水木さんは生き残れた喜びと、絵を続けられるかもしれない希望もあり清々しい気持ちで過ごしていたと語っています。
仕事は染物工場の絵付け・魚屋・自転車タクシー・闇市商売・アパートの大家など転々としましたが、水木さんの経営するアパートに紙芝居作家の弟子が入居してきたことで、1度諦めた絵への熱意が蘇って、紙芝居の貸元を紹介してもらって作品の持ち込みを始めました。
ギモンくん軍隊での生活中も水木しげるさんらしさは変わらなかったのかな?
カイケツさんそうみたい。態度の大胆さで幹部と勘違いされて、お風呂場で古年兵に背中を流してもらったこともあるんだって!
30代(1952年~1962年)
水木しげるさんが紙芝居の持ち込みを始めると、林画劇社のまとめ役をしていた鈴木勝丸さんに気に入られ、鈴木さんが独立して阪神画劇社を設立した時に引き抜かれて専属作家になりました。

作品作りに没頭し「空手鬼太郎」「河童の三平」などを制作しますが、テレビなどの他の娯楽が出てきたことで、紙芝居業界は急速に衰退します。
その後、水木さんは紙芝居に見切りをつけて漫画家への転身を決め、上京して貸本の版元に持ち込みを始めました。
貸本というのは小説や漫画単行本や月刊誌を安く貸し出すお店のことで、のちのレンタルビデオ店の先駆的存在として戦後に大流行したそうです。
水木さんの漫画家としての1番最初の仕事は別の作家さんが書き残した「赤電話」という漫画を完成させることで、それを無事に終えた後に正式なデビュー作「ロケットマン」を出版します。1958年、36歳の時のことでした。
貸本漫画の報酬は1冊(120ページ程度)につき25000円~30000円となっていました。当時の国家公務員の初任給が1万円足らずと考えると破格の高給ですが、売れる見込みがないと買い取ってもらえず、買い取られても「様子見」と言って少ない報酬しか支払われないことも多かったようです。
働いても働いても生活は苦しいままで家賃滞納や質屋通いが続き、そんな生活の影響を受けて作風も陰惨になっていきました。ですが暗い作品は敬遠されて売れず更に生活は苦しくなる……という悪循環に陥っていました。
上の画像は30歳頃の水木しげるさんの写真です。水木さんは近眼とのことで眼鏡をかけた写真が多いですが、眼鏡が無いと印象がだいぶ違いますね。
水木しげるさんは40歳近くまで独身でしたが、そのことを心配したご両親の強い勧めでお見合い結婚しました。ご結婚についても後述します。
この頃の水木さんは作品を描いても描いても原稿料を出し渋られ、紙芝居業界同様に貸本漫画業界も衰退していき、生活はどんどん苦しくなっていきます。
あまりの貧しさで自宅に税務署員が来て「こんなに収入が少ないわけがない」と疑われ、「我々の生活がキサマらに分かるか!」と質札の束を突きつけて、追い返したというエピソードもあるくらいです。
調布市は水木さんが50年以上住んだ市で、現在も街のそこかしこに水木さん作品のキャラクターのオブジェがあり、鬼太郎と仲間達が描かれたバスも走っています。
お子さんが生まれた時は、漫画家を辞めることも考えるほど追い詰められていたそうですが、そうした中で紙芝居作家時代に描いた「鬼太郎」を題材にすることを思いついて、1960年(当時38歳)に「墓場鬼太郎」シリーズの執筆を開始します。
後年の鬼太郎とは違う陰鬱な怪奇物に仕上げたところ全く売れず、それを連載していた貸本雑誌「妖奇伝」も2号で打ち切りとなりましたが、一部の読者から連載再開を希望する手紙が届きました。
その手紙のあまりの熱心さに、倒産間際だった出版社が最後の希望を託して「墓場鬼太郎」の刊行を継続したところ人気作となり、「水木しげる」「鬼太郎」の名前が知られていきました。水木さんは後年、「窮地に陥るといつも現れて救ってくれるのが鬼太郎だった」と述べています。
ギモンくん「水木しげる」というペンネームの由来は何だろう?
カイケツさん神戸市兵庫区水木通りのアパートを「水木荘」って名付けて経営してた頃、本名の「武良 茂(むら しげる)」を覚えてくれない人から「水木さん」って呼ばれていたのが由来なんだって。
40代以上(1962年~)
鬼太郎に救われて名が売れると、多少強気の姿勢に出られるようになり、「墓場鬼太郎」の原稿料を支払わない出版社から三洋社に移籍して「鬼太郎夜話」を刊行します。

これも人気が出ましたが、三洋社社長の入院で経営が混乱して打ち切りになりました。以降は移籍前の出版社と和解して「河童の三平」を漫画化するものの倒産してしまったり、貸本漫画に活躍の場を移して「悪魔くん」を描きましたが思ったほど人気が出ず、全5巻の予定が3巻で打ち切りになったりしていたそうです。
入院・療養されていた三洋社社長が復帰した後、現代漫画の源流の1つとなる「月刊漫画ガロ」の第1号が出版されて、水木さんは読み切り短編「不老不死の術」を掲載しました。
その後も看板作家として活躍され、水木しげるさん一家のすぐ傍まで押し寄せていた餓死の危機を逃れたのは「ガロ」に拾われたおかげだったのだとか。
その後、水木さんが43歳の頃に週刊少年マガジンから執筆を依頼され承諾しました。
貸本時代の絵柄から子供向けの可愛い絵柄に変えるのは苦労したそうですが、別冊少年マガジンに掲載した「テレビくん」が、第4回講談社児童漫画賞を受賞し、45歳にして人気漫画家への仲間入りを果たしました。
長い貧乏生活の間に質屋通いをしすぎて、質札は3cm分になりましたが、原稿料で全て返済出来て取り戻せたそうです。水木さんの作品の影響で漫画・テレビ・映画の世界に妖怪ブームが訪れ、民俗学での専門用語だった「妖怪」という言葉も世間に広まっていきました。
上の画像は水木しげるさんが長女の尚子さんと撮った写真です。遅くに結婚して出来た子供というのもあり、可愛くてしょうがなかったでしょうね。

急増した仕事に対応するため、1966年(当時44歳)に水木プロダクションを設立しました。
子供の頃から睡眠時間だけは削ったことがなかった水木しげるさんでしたが、この時期ばかりはあまりの忙しさで徹夜続きだったのだとか。睡眠不足による体調不良に悩まされ始め、26年ぶりに行ったニューブリテン島で自分のペースを失っていたことに気付いたというのもあり仕事をセーブするようになりました。
1980年代初期にはブームが一段落して低迷期を迎え、奥さんが「私が働きに出ようか」と提案するほど経済的に厳しくなっていきました。
経済的余裕とともに心の余裕も無くなってしまったのか、一時は自暴自棄になって「妖怪なんていない」と言い出したこともあったそうです。
しかしその後、再放送などで人気が復活して、あらゆる世代からの知名度を得ました。ブーム再燃後は自らが描きたいと思うものを選びながら執筆して、個性派作家としての人気を確固たるものにし、1991年(当時69歳)に紫綬褒章を、2003年(当時81歳)に旭日小綬章を受章しました。
さらに、2010年(当時88歳)には文化功労者に選出されています。水木さんは90歳を超えてもなお新作漫画やエッセイを発表し続け、90代で新連載を始めるという異例の記録も残しました。
上の画像は、生前墓を建てた時の水木しげるさんの写真です。1982年のことなので、当時60歳です。こちらのお墓は水木さんが「調布のミケランジェロ」と絶賛する墓石屋さんの手彫りなのだとか。
その後、水木さんは2015年11月30日に93歳で多臓器不全により亡くなりました。通夜・葬儀・告別式は近親者のみで行いましたが、翌年1月の「お別れの会」には親交のあった著名人や一般弔問者など7800人が参列しました。
ギモンくん自暴自棄になって妖怪への興味や創作意欲を失った後、どうやってそれらを取り戻したのかな?
カイケツさん水木さんの次女の悦子さんが修学旅行で妖怪と遭遇したと聞いて、喜んで立ち直ったみたい。
ちなみに、この時現れたのは「目々連(もくもくれん)」という妖怪で、障子に目が浮かび上がって動き回るところを悦子さんと同級生達が目撃しているよ!
水木しげるのプロフィール・SNS
- 名前:水木 しげる(みずき しげる)
- 本名:武良 茂(むら しげる)
- 生年月日:1922年3月8日
- 年齢:享年93歳(2015年11月30日逝去)
- 出身地:大阪府西成郡(現・大阪市住吉区)
- 血液型:A型
- 趣味:自宅の改築・睡眠
- 所属事務所:水木プロダクション

SNS
- X(旧Twitter) URL:https://x.com/mizukipro
水木しげるさん、波乱の生涯展示 「人生絵巻」やインタビュー映像も | 毎日新聞 https://t.co/GbfNhc7iDA
— 株式会社水木プロダクション (@mizukipro) January 13, 2025
- facebook URL:https://www.facebook.com/mizukipro/
- YouTube URL:https://www.youtube.com/@heykitaro2449
- オフィシャルサイト URL:https://www.mizukipro.com/
ギモンくん改築が趣味の水木しげるさんのご自宅ってどういう感じなのか気になる……。
カイケツさんなんとトイレ5つ・お風呂場3つ・階段は5ヶ所あって、2階建てなのに一部分は3階建てという迷路みたいな家なんだって!
水木しげるの左手喪失の原因と妻との馴れ初め・若き日の苦労まとめ
- 戦地ラバウルで敵機の爆撃に遭い左腕を失っている
- 出血多量かつ血液型が分からず輸血ができず死斑が出て延命のため切断手術を受けている
- 手術は麻酔なしだがマラリア高熱で痛みの記憶は薄いと本人が述べている
- 終戦翌年に国立相模原病院で本格的な再手術を受けている
- 父は片腕でできる仕事を模索し母は片腕で家事をして寄り添っている
- 本人は右腕があれば絵を続けられると希望を持ち創作意欲を保っている
- 結婚は両親の勧めによる見合いで相手は島根県安来市出身の10歳年下の布枝さんである
- 仲介は布枝さんの叔父でその妻が水木家の遠縁とされている
- 見合いで収入を盛る発言や方言の失敗談を経つつ縁談が進んでいる
- 見合いから挙式までわずか5日のスピード婚である
- 生活は質屋通いが必要なほど厳しかったが布枝さんは仕事ぶりを尊敬しアシスタントとして支えている
- 逝去時に布枝さんは長年の感謝と「あの世でもよろしく」との趣旨の言葉を残している
- 幼少期は言語発達が遅く就学でもつまずく一方で絵を評価され公民館で個展を開いている
- 戦地では理不尽ないじめや飢えを耐え決死任務から生還し現地民と交流後に帰国を決断している
- 戦後は紙芝居と貸本不況で家賃滞納に苦しむが「墓場鬼太郎」で道を切り開き人気を得ている
- 調布に長く住み水木プロダクションを設立し再放送などで人気が再燃している
- 受章歴は紫綬褒章や旭日小綬章のほか文化功労者選出が本文に記されている
- 2015年に93歳で逝去し多くの弔問者に見送られている
- 逆境の連続を家族の支えと創作への執念で乗り越え右腕一本で漫画史に確かな足跡を残している
