【画像】田村正和と妻の馴れ初めは?兄弟は現在なにしてる?若い頃イケメン!

田村正和さんのプライベートで最も語られてきたのが“妻・矢島和枝さんとの出会い”と“田村一族の現在”。

おふたりは1968年頃に友人宅のパーティーで知り合い、約2年の交際を経て1970年にカトリック田園調布教会で家族中心の挙式。和枝さんは銀座の一流テーラー社長令嬢で、東洋英和短大を経てカナダ留学も経験した年上の才色兼備。仕事は自分、家庭は妻に任せるという価値観のもと、田村さんは“年の数だけ薔薇を贈る”ほど深い感謝を示してきました。

兄弟は、長兄・田村高廣さんは2006年に逝去、次兄・俊磨さんは実業家として活動後に第一線を退き、弟・田村亮さんは現在も俳優としてテレビ・映画・紀行番組で精力的に出演。

若き日の二枚目ぶりから『眠狂四郎』『古畑任三郎』までの代表作とともに、家族の今が一目でわかります。

この記事でわかること

  • 田村正和と矢島和枝の出会い〜1970年の挙式までの流れ
  • 妻・和枝さんの人物像(社長令嬢・留学経験・年上婚)
  • “年の数だけ薔薇”など夫婦エピソードと家庭観
  • 兄弟の現在:高廣・俊磨・亮(近年の出演や近況)
  • 若い頃のイケメン期から『眠狂四郎』『古畑任三郎』までの代表作
目次

【画像】田村正和と妻との馴れ初めは?兄弟は現在なにしてる?

田村正和と妻との馴れ初めは?

引用元:X X
田村正和さん
引用元:週刊女性PRIME

田村正和さんと奥様の和枝さんは、1968年頃共通する友人宅でのパーティーがきっかけで出会いました。当時、田村さんはすでに俳優として活躍されており、和枝さんは、3歳年上だったそうです。

銀座の一流テーラー社長令嬢だった和枝さんは、東洋英和女学院短期大学を卒業後、カナダの大学へ留学経験がある才色兼備の女性で、その後約2年間の交際を経て1970年9月に結婚されています 。

お2人は出会った時から惹かれるものがあったようです。

「無心にゲームしてる彼がクールで純情そうで」(和枝さん)
「彼女は初対面から親切で気がついて」(田村さん)

引用元:Woman excite

上記のようにお話しされ、好意を抱いていたそうです。さらに田村さんは「和枝さんが初めて結婚を意識した相手だった」と親しい関係者に伝えていました。特に田村さんの母親が和枝さんを大変気に入ったそうで、几帳面で厳格だった母親のお眼鏡にかなったことが、結婚の決め手になったようです。

結婚式はカトリック田園調布教会で、両家の親族11人と映画監督の木下恵介さんのみを招いた質素なものでしたが、田村さんの希望で病気がちだった「母の負担を考えて」控えめに挙式を行ったということです 。

けん

田村さんは、“女性は結婚したら家庭に入るべき”が持論の亭主関白タイプと言われているね。

のぞみ

それは、男尊女卑ということではなくて、“外での仕事は自分が全力で頑張るから、家のことは妻に任せる”という考え方だったそうよ。
田村さんは常に奥様に感謝をしていたそうで、周囲にも「ウチの奥さんは100点満点だ」とおっしゃっていたそうなの。
何よりも、奥様の誕生日には、年の数だけバラの花を贈っていたんですって。素敵な関係よね!

田村正和の兄弟は現在なにしてる?

引用元:X
田村さん家族
引用元:婦人公論.jp

田村正和さんは四人兄弟です。長男は俳優の田村高廣さん、次男は実業家の田村俊磨さん、そして四男が俳優の田村亮さんです。田村正和さんは三男にあたります。そして異母弟に俳優の水上保広さんがいます。

長男:田村高廣さんは俳優として活躍されましたが、2006年5月16日に77歳で亡くなりました。 そのため、現在は活動されていません。

次男:田村俊磨さんは兄弟の中では唯一芸能界入りせず、実業家として株式会社タムサプライ代表取締役社長などを務めていました。 現在は80代半ばを過ぎ、会社経営からは退き、引退生活を送られているそうです。また、田村正和さんの訃報に際しては、兄弟を代表してマスコミの取材に応じていました。

四男:田村亮さん(本名:田村 幸照さん)現在も俳優として精力的に活動されています。 近年では、2023年に公開された映画『ヌーのコインロッカーは使用禁止』に特別出演され、テレビドラマや映画、舞台などで活躍を続けています。2025年6月には『あなたの知らない京都旅〜1200年の物語〜』『田村亮 故郷 嵐山・嵯峨野〜兄・正和との思い出めぐり〜』という紀行番組に出演されました。

水上康広さんは俳優やナレーターなど田村和正さんと同じ仕事をされており、共演されたこともありました。ただ、現在の詳しい情報はなく、70代後半ということで引退されているのかもしれません。

けん

次男の田村俊磨さんは俳優業には興味がなかったのかな?

のぞみ

本当に全く俳優に興味はなかったんですって。「むしろ父とは違う道を歩きたいという気持ちが強かった」とお話しされているの。
ただ、付き添いで田村登志麿名義で映画とドラマに出演されたことはあったそうよ。

【画像】田村正和は若い頃イケメン!

10代(1953年〜1963年)

田村正和さん
引用元:PR TIMES

田村正和さんは、戦前から戦後にかけての映画界の大スターだった阪東妻三郎さんを父に持ち、幼い頃からなんとなく父親のしている仕事をしたいと思っていたそうです。それを知った父親に大変喜ばれ、「僕にあとを継がせたかったんでしょうね、丹下左膳の扮装などを教えてくれました」とお話しされています。

小学4年生(当時9歳)の時に父・阪東妻三郎さんを亡くしてしまいますが、「演技の影響は特に受けていないが、母から聞いた父の役者としての生き方や姿勢は影響を受けたかもしれない」とのちに語られていました。

上の画像は1960年(当時17歳)の時のものです。兄・田村高廣さん主演の映画『旗本愚連隊』の撮影現場を見学に行った際、関係者に勧められてこの映画に端役として出演されました。これが俳優としての第一歩となり、映画初出演作品となりました。

引用元:X

田村正和さんは、1961年(当時18歳)松竹大船と専属契約し、成城学園高校在学中に木下惠介監督の映画『永遠の人』で正式に俳優デビューされました。木下監督は次の1962年(当時19歳)映画『今年の恋』にも田村さんを起用し、数年間にわたって木下作品に出演させています。

木下監督は、阪東妻三郎さんの代表作の1つ『破れ太鼓』を手がけた監督でもあり、息子である正和さんを正統派二枚目として高く評価されていました。演出家として田村さんの美しい佇まいや演技の素質を見出していたとされています。

上の画像はデビュー映画『永遠の人』の時のものです。「映画俳優の基礎は、あのときの木下監督との仕事で学びました」と田村さんにとって、木下監督は映画俳優としての基礎を学んだ恩師のような存在だったそうです。

けん

偉大な父を持つ田村さんにとって、俳優業をすることはプレッシャーにならなかったのかな?

「役者としてのバンツマを意識することはあるか」という質問には、次のように答えている。

「いやいや。全然意識してないですよ。役者としての生き方も僕と親父とは全然違うしね。

 それに時代も違いますから芝居の質も変わってきてるし、芸能界自体も変わってきてますからね。親父のことは全く考えてません。あくまでも自分の、芸能界でどういうポジションにいけるのかとか、それから自分の役者としてのスタイルがどういうスタイルなのかとか、自分の芝居がどういう芝居の種類なのか、全部自分で処理して、それを──なんていうか──パフォーマンスして、というかな。そういう形ですからね。親父のことは全くありません」

引用元:NEWSポストセブン
のぞみ

名優と言われる父親を持つことに負担を感じることはなく、自分は自分で父は父であり、息子だからと意識はしていないそうよ。

20代(1963年〜1973年)

引用元:X

田村正和さんは1963年(当時20歳)NHKドラマ『花の生涯』に出演し、ここから5年連続で大河ドラマに出演することになります。この『花の生涯』は、のちに大河ドラマとよばれるようになった大型娯楽時代劇の記念すべき第1作になります。

この頃の20代前半の田村さんは、数年の間で10作以上の映画やドラマ出演をされていましたが、声があまり通らず風貌も地味に映ったことから、大きな役をもらえず脇役や助演が多かったそうです。

上の画像は『花の生涯』のものです。地味に映ったとされていますが、これだけの映像からも田村さんの持つ上品で知的な二枚目の雰囲気は感じられると思います。

引用元:X X

1965年(当時22歳)には映画『この声なき叫び』で初の単独主演、1966年(当時23歳)には田村さんが主演する映画『空いっぱいの涙』の主題歌を歌い、レコードデビューも果たしました。

1966年から1967年(当時23歳から24歳)にかけて放送されたTBS系ドラマ『新吾十番勝負』では、テレビ時代劇初主演を果たしました。 田村さんは、将軍の隠し子という出自の秘密を抱えながら成長していく若き美剣士・葵新吾を演じられ、殺陣や所作の華々しさや凛々しさに惹きつけられる作品となりました。

上の画像は『新吾十番勝負』のものです。1966年に大学を卒業するまでは、学業と並行して映画テレビドラマに出演されていました。松竹と専属契約を結んでいた中「作品を選んで出演を決めたい」「台本が出来ないうちに出演を強制されたくない」と考え、年間10本もの映画出演の打診のうち5本を断ったとお話しされています 。『新吾十番勝負』の出演はフリーになってからの作品でした。

引用元:X

田村正和さんは、1972年~1973年(当時29歳〜30歳)連続ドラマ『眠狂四郎』主演に抜擢されました。この剣豪小説シリーズ原作の柴田錬三郎さん自らが「狂四郎は田村に演じてほしい」と指名されたことがきっかけとなり、この役が田村さんの代表作の一つとなりました。

田村さんも「やはり原作者から指名していただいて演じるということは光栄なことですよね。その時から公私にわたってお付き合いさせていただきましたので、僕にとって『眠狂四郎』は大事な作品です」と振り返ってお話しされています。

上の画像は『眠狂四郎』のものです。20代後半の田村さんに「40、50代になった正和くんの狂四郎はもっとよくなるよ」と柴田錬三郎さんから先を見据えてお話しされたことが田村さんの心に残っているそうです。「田村正和の代名詞になる程の作品がこれまでに無い気がするので、代表作にしたい」ともお話しされ意気込んで撮影されたそうです。

けん

眠狂四郎は田村さんのファンが増えた作品の1つだよね。

のぞみ

そうね。そしてこの頃のファンには女性が多くて、眠狂四郎作品は性的描写も多いことから、多くのファンたちがテレビ局へ「田村にあまり変なことをさせないでほしい」という要望が届いたなんて話もあるのよ。

30代(1973年〜1983年)

田村正和さん
田村正和さん
引用元:スポニチアネックス NEWSポストセブン

田村正和さんは、1977年(当時34歳)の時に、NHKドラマ『鳴門秘帖』で主演し、虚無的で影のある美剣士・法月弦之丞役を演じられました。それまでのファン層をさらに広げ、多くの人気を獲得しました。「美しい剣士姿は眼福だった」というファンの感想もあります。

上の画像はドラマ『鳴門秘帖』の制作発表とドラマのワンシーンです。徳島ロケの際、地元デパートでサイン会が開催されたのですが、あまりの人気にデパートの1階から6階まで階段に人があふれ、警官隊が見守る中でサイン会が行われたそうです。

こんなに美しい俳優さんが近くにくるのであれば、一目見たいと地元の人が押し寄せてしまうのも無理はないと思います。

田村正和さん
引用元:X スポニチアネックス

田村正和さんは、1979年(当時36歳)の映画『日本の黒幕(フィクサー)』に出演した後、1993年までの約14年間は映画には出演されず、主な活躍の場をテレビドラマへと移しました。「僕は実は映画出身。で、映画で失敗してるわけ」とお話しされていることからも、この時代不遇だった映画に早々に見切りをつけたと言われています。

ところが、後のインタビューで「テレビで色んなこと教えてもらったり育ててもらったり…。映画は嫌いって言うんじゃないんだけど、テレビドラマが好きなの。テレビドラマの現場の方が、僕には向いてるような気がするのね。」とお話しされています。『映画で失敗』というのは親の七光りがあった若い頃には、基礎もなく何もできない息子である自分のために主演映画が用意され、期待に応えられなかったことを意味しているようです。

上の画像は1979年の時のものです。映画『日本の黒幕』のワンシーンと当時の写真です。1980年代に入っても、田村さんには多くの映画出演のオファーがあったそうですが、ことごとく断り続けていったそうです。

けん

この頃の田村正和さんは『俳優貴族』や『憂愁の貴公子』なんて呼ばれているね。

のぞみ

日本のアラン・ドロン』と言われていたこともあったそうよ。
ミステリアスで冷徹な二枚目キャラで、孤高の存在感というイメージに、ファッションや佇まいを含めて・・・納得の呼び名だわ。

40代以上(1983年〜2021年)

引用元:X X

田村正和さんは、1984年(当時41歳)ドラマ『うちの子にかぎって…』で、それまでのクールなイメージを覆すコミカルな小学校教師役を演じ、1987年(当時44歳)『パパはニュースキャスター』では、さえない父親役も好演して、俳優としての新境地を開拓しました。

この時田村さんは、当初子供相手の役柄に戸惑いがあったと伝えられていますが、「役を固めていた僕をコメディーの世界に連れ出してくれた」と三枚目の役を演じたことで、世界が広がったとお話しされていました。

上の画像は各ドラマのものです。どちらも脚本は伴一彦さん、プロデューサーは八木康夫さんでした。近寄りがたいイメージのあった田村さんに、意外な親しみやすさを感じた作品になりました。この頃から多くの芸能人にモノマネをされるなど、田村さんの印象が変化していきました。

引用元:X

田村正和さんは、1994年(当時50歳)の時に、フジテレビ系ドラマ『警部補・古畑任三郎』で、独特のユーモアと鋭い洞察力で犯人を追い詰める刑事・古畑任三郎役を演じ、俳優人生を代表する当たり役となりました。この役は「和製刑事コロンボ」とも呼ばれています。

もともと刑事ドラマには出演しないとマネージャーが決めており、最初の出演依頼の際も断ったそうですが、脚本の三谷幸喜さんから「従来の刑事ドラマとは異なり、ピストルを持たず、アクションも無く、論理的に事件を解決する」と説明を受け、更に第2話の脚本を読み、「これならやってみたい」と田村さんが出演を決意されました。

田村さんご自身も1999年(当時55歳)に古畑任三郎第3シリーズがスタートするにあたり、めったに受けない取材の中で「田村さんにとって『古畑』は?」という質問に「良い選択をしたと思っています」と答えています。さらにご自身と古畑の似ている点を聞かれ、冗談半分に「可愛いところ」とも答えられました。

上の映像はドラマ『警部補・古畑任三郎』のワンシーンです。脚本家の三谷さんに対し「自分にあんな芝居ができるなんてこれっぽっちも考えていなかったのを見つけ出し、新たな一面を引き出してくれた」と感謝を述べられていました。まさしく田村正和さんが国民的俳優になった作品でした。

引用元:X

2017年(当時73歳)スペシャルドラマ『眠狂四郎 The Final』で主演を務め、19年ぶりの『狂四郎』役を演じられました。今回が最後としながらも「(寂しさは)ない。やりつくした」と晴れやかにお話しされています。

ここは(東映京都撮影所)、大正14年に親父がつくった撮影所で、自分もこの撮影所の近くで産まれました。そういったゆかりのある場所で時代劇を撮影できるということで今回のお話を受けました」とオファーを快諾したとお話しされていました。

この時、「もう十分やった」「キャリアを終えるきっかけを探していた」という言葉も口にしていたそうです。

上の画像は『眠狂四郎 The Final』の時のものです。これが俳優として、田村正和さんの最後の作品となりました。監督を務めた山下智彦さんは、田村さんの死後「『この作品で引退を』と田村が最初から考え、京都や時代劇に別れを告げるために出演したのではないかと思う。」と回想されています。

けん

田村さんは、撮影現場などで他の共演者やスタッフたちと群れることがなくて、気難しい人だと思われがちだったんだよね。

のぞみ

そうなの。でもマネージャーさんがいうには、「ただあまりにシャイ過ぎるだけで、話をするのも好きで、誰とでも気さくに話す」ということだったの。
元々京都出身だったから、田村さんもカメラが回っていないところでは関西弁を話していて、共演者に驚かれることも多かったんですって。

田村正和のプロフィール・受賞歴

田村正和さん
引用元:スポニチアネックス

プロフィール

  • 名前:田村正和(たむらまさかず)
  • 生年月日:1943年8月1日
  • 年齢:77歳没(2021年4月3日逝去)
  • 出身地:京都府
  • 血液型:O型
  • 趣味:ゴルフ、読書、映画鑑賞、散歩
  • 所属事務所:新和事務所

受賞歴

  • 第1回ザテレビジョンドラマアカデミー賞 主演男優賞、ベストドレッサー賞(1994年、『警部補・古畑任三郎』)
  • 第8回ザテレビジョンドラマアカデミー賞 主演男優賞(1996年、『古畑任三郎』)
  • 第31回ザテレビジョンドラマアカデミー賞 主演男優賞(2001年、『さよなら、小津先生』)
  • 第10回みうらじゅん賞(2007年、『ラストラブ』)
  • 第49回モンテカルロ・テレビ祭 最優秀男優賞(2009年、『そうか、もう君はいないのか』)
けん

田村正和さんって、生涯ミステリアスな雰囲気を全く崩さなかったよね。

のぞみ

田村さんは、常に『俳優田村正和』でいるためにストイックな生活をしていたそうよ。
都内の自宅敷地内に母屋と離れがあって、家族と別々に生活して、食事も1人で取っていたんですって。
ダンディーな独身男性』の雰囲気を保つために、ものを食べているところを人に見せないよう、会食もほとんど参加しなかったのよ。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次