1963年、吉行和子さんは劇団民藝時代に公演の照明担当者からの電撃プロポーズを受け入れて結婚。しかし「家に人がいる生活」への違和感から約4年で離婚し、「一人で自立して生きる」ことを選びました。これが私生活の岐路。
一方、仕事では『アンネの日記』の代役抜擢を起点に映画・ドラマ・舞台で存在感を高め、前衛的舞台への挑戦や『愛の亡霊』の評価、『金八先生』『ふぞろいの林檎たち』などで幅広い役柄を確立。晩年まで『湯道』(2023)、『ココでのはなし』(2024)、テレ東60周年ドラマ『晴れたらいいね』(2025)と第一線で活躍しました。
本記事では、電撃婚の馴れ初めと離婚の理由、若い頃の可憐な写真とキャリアの転機、そして晩年まで続いた代表作を時系列でやさしく整理します。プロフィール(1935年生、2025年9月2日逝去)も併せて確認でき、人物像の全体像が短時間でつかめます。
この記事でわかること
- 1963年の結婚の経緯(劇団民藝時代/照明担当者との電撃婚)と、その後約4年で離婚に至った背景
- 離婚理由の核心(共同生活への強い違和感と“ひとりで生きる”という価値観)
- 若い頃の可憐なビジュアルと『アンネの日記』代役抜擢など初期キャリアの転機
- 近年の主な出演作『湯道』(2023)『ココでのはなし』(2024)『晴れたらいいね』(2025)の見どころ
- 基本プロフィール(1935年生/所属/エッセイ活動/2025年9月2日逝去の事実)
【画像】吉行和子と元旦那との馴れ初めと離婚理由!現在の活動は?
吉行和子の元旦那との馴れ初め・離婚理由は?
引用元:時事ドットコムニュース
吉行和子さんは1963年、28歳で結婚しています。
劇団民藝に所属していた吉行和子さんは、当時公演照明を担当していた人から突然結婚を申し込まれました。結婚式や新婚旅行はなく、日常の延長線上で入籍し、そのまま共同生活が始まったといいます。
しかし毎晩「家に帰る前に喫茶店でコーヒーを飲んで気合いを入れないと玄関に入れない」ほど、家に人がいる生活に強い違和感を抱くようになりました。これは幼少期から家族とまとまって食卓を囲む経験がほとんどなく、一人でいることが“当たり前”だった生育環境にも起因していると言われています。
本人は「自分が共同生活に向かないことはすぐに分かった」「失敗したと感じたが、4年間よく頑張った」と語っており、離婚後は「ひとりで生きることが当たり前」「誰かに依存しない自由さが自分には合っている」と断言し、現在も一人暮らしを楽しんでいるそうです。
上の画像は1967年頃、離婚前後の写真です。当時の若奥様といった雰囲気を感じますね。
けん吉行和子さんはお料理は得意なのかな?
のぞみいいえ!お料理は全くしないんですって。
おうちに包丁もないそうよ。
吉行和子の現在の活動は?
引用元:ぴあ映画
吉行和子さんは80代に入ってもなお、映画・ドラマ作品で多彩な役柄を演じ続け、成熟した名バイプレーヤーとして存在感を放っています。
88歳になった2023年には、映画『湯道』で常連客を演じています。この映画は脚本家・小山薫堂が提唱する“湯道”をテーマにしたヒューマンドラマです。主演は生田斗真さんで、銭湯を舞台に人々の交流と再生を描いています。
夫と入浴後にフルーツ牛乳を飲むのが日課という、ほのぼのとしたキャラクターです。風呂に対しては無精ながら、夫との穏やかな関係性が観客の心を和ませます。
吉行さんは、銭湯文化の象徴として“昭和の温もり”を体現しました。彼女の自然体な演技が、作品全体の空気感に深みを与えています。豪華キャストの中でも、静かな存在感が際立ち、観る者に安心感をもたらしました。
上の画像はこの映画のワンシーンです。夫役は笹野高史さんです。
引用元:BANGER!!!
翌年2024年公開の映画『ココでのはなし』ではSNSライフハックを配信する“泉さん”役で出演します。都会のゲストハウスに集う人々の心を解きほぐす愛あふれる演技が高評価を得ました。
「若い世代の作品に参加でき、とても楽しい撮影現場でした。人生の休憩場所のような役柄を演じられて光栄です」とコメントし、今後も幅広い作品で自身の経験を活かしていく意欲を示しています。
上の画像は映画『ココでのはなし』のものです。料理の様子を配信する役なのに、実生活では料理ができないので内心びくびくしながら演技していたそうです。そうはみえないのが、さすが役者!といったところですね。
引用元:クラインクイン‼
2025年3月に放送されたテレビ東京の特別企画ドラマ『晴れたらいいね』に出演します。吉行和子さんは現代パートに登場する美津という女性で、寝たきりの元看護婦・雪野サエの親友役です。
このドラマは現代の看護師・高橋紗穂(永野芽郁)が戦時中のフィリピンにタイムスリップし、従軍看護婦として仲間とともに過酷な状況を生き抜く姿を描いたヒューマンドラマです。
美津はサエの過去を知る数少ない人物として、主人公を静かに見守る存在です。吉行さんは「戦争を知らない世代に、静かに語りかけるような作品だった」と語り、撮影中には実在の従軍看護婦の写真を見て「この人たちが本当に存在していたと思うと胸が熱くなった」と感慨深げに話していたそうです。
上の画像はそのテレビドラマのものです。上段左から2人目が吉行和子さんです。
けんびくびくしたって、なにを料理したのかな?
のぞみ生のイカをはさみでさばいたそうよ。
たしかに普段料理しないと、
生のイカなんて、さわらないもんね!
【画像】吉行和子は若い頃かわいい!
20・30代(1955年~1974年)
引用元:HB ホーム社文芸図書WEBサイト
1955年(20歳)、吉行和子さんは劇団民藝の研究生として演劇の世界に飛び込みました。そして2年後の1957年『アンネの日記』で初舞台を踏みます。
裁縫と絵が好きだったため、衣装係を希望していましたが、女優として採用されました。衣装係の研修として稽古場に通っていたそうですが、なぜかセリフを覚えていたそうです。上演の数日前、主役が風邪で声が出なくなり突然代役が決まったそうです。
通常であれば、舞台稽古を経て本番を迎えるものですが、吉行さんの場合は普通の女の子が突然、大勢のお客様の前に飛び出していったという異例の状況でした。
吉行和子さんは「不思議なことにセリフがどんどん言えた。」と振り返ります。この体験について、吉行さんは、自分は今アンネ・フランクで何でもできる、と感じていたそうで「そんな自分が不思議で、役を演じるという面白さに引っかかったのかもしれません」と語っています
この初舞台での体験は、吉行さんの人生観を根本的に変えました。もともと引っ込み思案で人嫌いだった彼女が、舞台の上では全く別人になれることに深い感動を覚えたのです。この突然の代役経験により、役に扮している時だけが楽しい、という女優としての本質を発見することになりました。
この体験が、その後50年以上にわたる女優人生の出発点となったのです。
22歳での主役抜擢は「瑞々しい感性と存在感が光る」と絶賛され、日本の新劇界に新風を吹き込んだと評価されました。主の風邪が治ってもダブルキャストで公演は続けられたそうです。この頃から「静かな演技で観客の心を動かす女優」として注目を集め始めます。
上の画像は初舞台の時のものです。目鼻立ちが美しいです。この美貌で衣装係はもったいないですよね。
引用元:デイリー新潮
1959年には映画『われらの時代』で映画デビューします。次々と映画作品に出演し『才女気質(さいじょかたぎ)』と『にあんちゃん』で、第14回毎日映画コンクール 女優助演賞を受賞しました。
以降、映画界で存在感を放ち、助演賞受賞時は、「若手時代の原動力となり、『もっと挑戦したい』という自信につながった」と述懐しています。知的で内省的な役柄を多く演じ、当時の日本映画界において「文学的な香りを持つ女優」として評価されました。
上の画像は映画デビューした同じ年の1956年頃のものです。和風美女ですね。
引用元:時事ドットコムニュース
34歳になった1969年、吉行和子さんは劇団民藝を退団します。当時アングラという、前衛的な表現の仕方で有名な演劇がありました。その台本をよんで、どうしても演じたくなった吉行和子さんは、まるで正反対のやり方の劇団民藝に在籍したまま出演することはできないと、辞めてしまいます。これは当時大ニュースになりました。
フリーになった吉行和子さんはさっそくこの劇団の公演にとびこみます。
何をやっても怒られる状態で、吉行和子さんは困惑しますが、新しい演技を模索し、体当たりの演技で周囲を納得させます。酷寒の地で木になわでしばられてつるされ、水をかけられる役も演じたそうです。最後には気絶してしまったそうですが、「この役を演じたおかげで、色々な役が来るから、間違ってなかったのね」と笑っていました。
上の画像は退団した翌年の写真です。こんなにはかなげなのに、ガッツがありますね!
けん劇団を退団するときに、けんかとかにならなかったのかな?
のぞみ劇団長だった人が、「やりたい役があるのは幸せなことだから」と
周囲の人をなだめてくれたらしいわ。
40代(1975年~1984年)
引用元:時事ドットコムニュース
43歳になった1978年、吉行和子さんが主演した映画『愛の亡霊』が公開されます。これは当時世界的監督だった大島渚監督からオファーを受け、フランスとの合作映画という大掛かりな映画でした。
これは吉行和子さんにとって俳優人生の大きな転機となった作品です。彼女はこの作品で、主人公・塚田せき役を演じ、性愛と罪、そして亡霊に苛まれる女性の内面を繊細かつ大胆に表現しました。
吉行さんは後年、「この作品で初めて“演じることが楽しい”と思えた」と語っています。劇団時代は常に試されているような緊張感があり、芝居を楽しむ余裕がなかったと振り返ります。しかしこの映画では、観客との距離が近く、「自分の力以上のものが引き出された」と感じたそうです。
撮影では、性愛描写を含む過激なシーンもあり、周囲からは出演に対して猛反対の声もあったといいます。それでも彼女は「人間の弱さや孤独を描くことに魅力を感じた」と語り、役に深く入り込む姿勢を貫きました。
この映画は、第31回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞し、国際的にも高く評価されました。吉行さんの演技は「情念にとらわれた女性のリアルな描写」として絶賛され、日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞しています。
上の画像は映画が公開される2年前の1976年のものです。この妖艶さが役にリアリティを添えたのかもしれません。
引用元:スポニチ
44歳になった1979年、ドラマ『3年B組金八先生』シリーズが始まり、吉行和子さんは家庭科教師・君塚美代子役を演じます。このドラマは、武田鉄矢さん演じる熱血教師・坂本金八が生徒の妊娠や非行などの問題に向き合う学園ドラマです。社会派作品として高視聴率を記録し、教育ドラマの金字塔となりました。
吉行和子さんは「理想の先生」として親しまれ、街中で「先生だ!」と声をかけられるほどの人気を得ました。若手俳優たちとの共演に「学校行事に初めて参加できた気分だった」と語り、ぜん息で学生時代に行事に参加できなかった自身の過去と重ねていました。
上の画像はドラマ『3年B組金八先生』第1シリーズの時のものです。左端が吉行和子さんです。
引用元:TBS
1983年、48歳になった吉行和子さんは次々と話題作に出演します。
『スチュワーデス物語』主人公・松本千秋の母・松本弓子役で出演します。再婚相手との板挟みや、娘への複雑な愛情を繊細に演じました。吉行さんは「若い人たちの熱量に圧倒された」と語り、母親としての葛藤をリアルに表現することに注力したそうです。このドラマは視聴率も高く、流行語や名シーンが多く生まれた名作です。
『スチュワーデス物語』は、放送当時に最高視聴率26.8%を記録する大人気ドラマでした。また、ドラマ内の「教官!」などのセリフが当時の流行語になったそうです。千秋がスチュワーデスになるサクセスストーリーは性別を問わず、広い世代から支持を受けました。
上の画像は『スチュワーデス物語』のものです。左から3人目の堀ちえみさんの母親役を務めました。
引用元:スポニチ
『ふぞろいの林檎たち』では、ラーメン屋を営む肝っ玉母さん・西寺知子役を演じ、息子・実を見守る温かくも芯のある母親像が評判をよびました。「若者の悩みに触れられる作品だった」と語り、親世代としての視点を大切にしたと述べています。こちらは人気のためシリーズ化されました。
上の画像は『ふぞろいの林檎たち』のものです。左から4人目の柳沢慎吾さんの母親役を務めました。
引用元:Amazon
また同じ年の1983年、初の随筆集、『どこまで演れば気がすむの』を出版します。吉行和子さんは父が作家、兄と妹が芥川賞作家という文学に深くかかわりあいのある家系です。このため、以前から文章を勧められていたようです。
演技者としての葛藤や舞台裏のエピソード、家族との関係、女性としての生き方などが、飾らない言葉で描かれています。特に『アンネの日記』の舞台での緊張感や、演出家からのメモを誤解して貧血で倒れたというユーモラスなエピソードは、彼女の繊細さと人間味を感じさせます。
この作品は第32回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞し、吉行さんが女優だけでなくエッセイストとしても高く評価されるきっかけとなりました。本人は「観客のような冷めた眼で自分を見つめた」と語り、演じることへの飽くなき探求心と、舞台に立つ者としての孤独や覚悟を静かに表現しています。
上の画像は『どこまで演れば気がすむの』の表紙写真です。
引用元:X「松本清張の指」🤞福江弓子と生方恒子の関係を👩❤️💋👩ただならぬ🤭殺気で😧見つめていた👀女がマンションの管理人である細井ヨシ子🙄この💁♂️細井ヨシ子がキーパーソン❗️吉行和子さんが飄々と😬演じてますが🙇🏻♂️名取裕子さんとは🤔金八先生繋がり❗️従妹の役でしたけど🤨そのギャップの演技も楽しめるんだよな😏 pic.twitter.com/m8maLLSOXL
— 谷岡浩二 (@cxs8yrtzyz) June 21, 2019
上の画像は1982年の、『松本清張の指』に出演する吉行和子さんです。火曜サスペンス劇場の松本清張シリーズ第一弾として放送されました。当時は作家松本清張の小説が作品化されることが多く、静かな演技が得意な吉行和子さんはよく起用されました。
特に印象的だったのは、1982年のテレビドラマ『松本清張の黒革の手帖』でした。この作品では島崎すみ江役を演じ、主人公の野望に翻弄される人物を巧みに表現しました。また、1983年の映画『天城越え』では主人公・建造の母親役で出演し、松本清張の描く心理劇の深さを体現しました。
1983年のテレビドラマ『松本清張の熱い空気 家政婦は見た!夫婦の秘密"焦げた"』では、後にシリーズ化される『家政婦は見た!』の原点となる作品に出演しました。この作品は松本清張の同名小説をドラマ化したもので、吉行さんの演技が作品の重厚さを支えました。
松本清張の作品について「人間の暗部を描きながらも、どこか温かみのある世界観に魅力を感じた」と語っており、この時代の出演作品が自身の演技の幅を広げる重要な経験だったと振り返っています。
40代は女優業以外にもバラエティ番組に出演し始めます。吉行和子さんのひょうひょうとしたおもしろさが受けて『笑っていいとも』『徹子の部屋』などから声がかかるようになっていきます。
けん吉行和子さんが最初に出たドラマ以外の番組は『笑っていいとも!』?
のぞみそれがちがうのよ。NHKの『おかあさんといっしょ』で
1960年代に「お話のお姉さん」として登場してるの。
ナレーションや朗読を担当していたらしいわ。
50代(1985年~1994年)
引用元:HBホーム社文芸図書WEBサイト
50歳になった吉行和子さんは、様々な分野で深い存在感を示し、比類ない演技力と豊かな文才を発揮しました。
映画『愛・旅立ち』『犬死にせしもの』など、話題作に出演する一方、58歳になった1993年、一人芝居の『MITSUKO』の公演をします。
これは明治時代の日本人女性・青山光子の実話を舞台化したものです。オーストリア貴族ハインリッヒと恋に落ち、家族の反対を押し切って結婚し、異国で差別や孤独に苦しみながらも、日本人としての誇りを胸に生き抜く姿を描いた感動作です。
始めは日本全国を好演していましたが、ヨーロッパ公演も4回行われました。「ひとり語りの深みを追求できた」と回顧しています。生の舞台での迫力あるパフォーマンスが絶賛され、チケットは常に完売状態でした。
上の画像は『MITSUKO』の時のものです。今でいう美魔女ですね。
引用元:週刊女性プライム
吉行和子さんは50代(1985~1994年)に女優業だけでなくバラエティ番組でも存在感を発揮しました。
特に冨士眞奈美さん、岸田今日子さんと共に「女優3人旅」として各地を巡る旅番組が大きな話題となりました。まったく正反対の性格を持つ三人が繰り広げる旅で、気心知れた女優同士の自然体のやりとりが人気を集め、シリーズ化されるほどのヒットを飛ばします。
吉行さんは時間厳守でせっかち、岸田さんは落ち着いていて、どんなことにも動じない性格、冨士さんは大荷物で「カバン一つが全部化粧品だったりした」という具合に、三人三様の個性が番組を生み出しています。
スペイン旅行を計画していた時のことです。極度の飛行機嫌いだった冨士眞奈美さんを、吉行和子さんが「これだけ生きたんだからいいじゃない。怖くないわよ」という奇妙な論理で説得します。岸田今日子さんも「私はマジョルカ島に行きたいわぁ」と、父親の岸田國士先生愛用のインク壺を求めて旅への意欲を示しました。
当初は1年後の約束でしたが、冨士眞奈美さんは「どうせ1年後なんてうやむやになって忘れているはず」と高をくくっていました。しかし、約束は守られ、「行ってみると、これが楽しいのなんのって。気がつくと私たちは、スペインの風に吹かれながら『また行こう』と、次の旅先をあれこれと妄想し始めていた」と言っていました。
他にもハワイの村で首長から求愛されたり、台湾の句会でラブレターをもらったりと、ほほえましい事件が起き、三人の魅力満載の番組でした。
この番組は中高年の旅行ブームを盛り上げることに大きく貢献しました。三人の自然体での交流が、多くの視聴者に勇気と楽しさを与えたのです。
吉行和子さんは「50代になってから、よき旅友ができた。旅先での素顔の交流がとても楽しかった」と語っています。
上の画像はシンガポールを旅した時のものです。左端が吉行和子さんです。この番組は後に文庫化され、活字でも3人の雰囲気を楽しめます。
けんこの3人に共通することはなんだろう?
のぞみ女優さんかしら。他にも3人とも俳句が好き、
ジャズピアニストの山下洋輔さんのファンなところも
共通点ね。
60代~(1995年以降)
60代は熟練の演技力が冴え渡り、スクリーン・ステージの両面で多彩な役どころを演じ分けました。
60歳で出演した映画『ひめゆりの塔』、61歳『お日柄もよくご愁傷さま』など、戦争映画とコメディ映画という両極端の作品でも存在感を発揮しました。
特に60代最後の作品となる映画『東京家族』は山田洋次監督がメガホンをとっており、「監督の作品はいつも身が引き締まる。家族の絆を繊細に描く現場が好き」語っています。
もとは2011年公開予定でしたが、東日本大震災があったため公開が延期されたのです。そのため脚本の一部を改訂し、市原悦子さんが出演予定だった主演を吉行和子さんが演じることになりました。また、本編中にも東日本大震災に言及するシーンが加えられました。
上の画像は映画『東京家族』の予告です。品のいい母親役を演じています。
引用元:新潮社
2006年、71歳で映画『佐賀のがばいばあちゃん』に出演します。地方を舞台にした温かい物語が口コミで広がり、ロングランヒットを記録しました。『おくりびと』など、話題作へ出演します。
翌年公開の映画『おくりびと』ではは、昭和の温もりを感じさせる人物として、静かで芯のある演技を披露し、観客の涙を誘いました。第81回アカデミー外国語映画賞受賞作品として世界的注目を浴び、吉行さんの存在感も話題になりました。
また、NHKの連続テレビ小説『つばさ』、『ごちそうさん』などにも出演します。
2011年76歳で『老嬢は今日も上機嫌』を出版します。これは家族、仕事、旅、読書、俳句など日々の出来事をユーモアと鋭い感性で綴ったエッセイ集です。俳号「窓烏(まどがらす)」として詠んだ句も収録され、年齢を重ねても好奇心と軽やかさを忘れずに生きる姿勢が魅力的に描かれています。
また79歳になる2014年にもエッセイ集『欲は小さく野菊のごとく』を発表します。「掃除道具から旅の思い出まで、自分の“好き”を詰め込んだ」と語り、ユニークな切り口と軽快な文体が評判を呼びました。
上の画像は『老嬢は今日も上機嫌』の表紙です。美しいおばあさんですね。おばあさんと呼ぶにはかなり若いように見えます。
けん俳号ってなに?
のぞみ俳句を作時用の名前ね。
初めて俳句を作る会に参加したら、
俳号をつけてって言われたんですって。
そのとき窓の外にからすがいたから、
とっさにこの名前にしたそうよ。
吉行和子のプロフィール・SNS
引用元:テアトル・ド・ポッシュ
プロフィール
- 名前:吉行和子(よしゆきかずこ)
- 本名: 同上
- 生年月日:1935年8月9日
- 年齢:90歳没(2025年9月2日逝去)
- 出身地:東京都
- 血液型:B型
- 趣味:俳句、旅行、パズル
- 特技:パソコン、スマホ
- 所属事務所:テアトル・ド・ポッシュ
けん吉行和子さんはSNSはやってないのかな?
のぞみ探したけれど見当たらなかったわ。
吉行和子の馴れ初め・離婚理由と現在の活動まとめ
- 1963年に28歳で結婚している
- 相手は公演の照明担当者で突然のプロポーズを受け入れて入籍している
- 結婚式や新婚旅行は行わず日常の延長として共同生活を始めたとしている
- 家に人がいる生活に強い違和感を覚え玄関に入る前に喫茶店で気合いを入れたと語っている
- 自分は共同生活に向かないと早くに自覚し失敗だと感じつつ4年間継続したと述懐している
- 離婚後はひとりで生きることが当たり前で依存しない自由が合っていると断言している
- 料理はしないとされ自宅に包丁がないとも語られている
- 80代以降も現役で活動し映画やドラマで成熟した名バイプレーヤーとして存在感を示している
- 映画『湯道』(2023年)で常連客役を演じ作品の空気に温もりを与えたとされている
- 映画『ココでのはなし』(2024年)で配信者“泉さん”役を務め若い世代の現場を楽しんだとコメントしている
- テレビ東京開局60周年ドラマ『晴れたらいいね』(2025年3月放送)で美津役として現代パートに出演している
- 初舞台は『アンネの日記』(1957年)で代役として登板し女優人生の出発点になったとされている
- 映画『われらの時代』(1959年)で映画デビューし『才女気質』『にあんちゃん』で毎日映画コンクール女優助演賞を受賞している
- 1969年に劇団民藝を退団し前衛的な舞台に挑戦して表現の幅を広げている
- 映画『愛の亡霊』(1978年公開)で高評価を得て日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞している
- エッセイ『どこまで演れば気がすむの』(1983年)で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している
- 俳号は「窓烏」でエッセイ『老嬢は今日も上機嫌』(2011年)や『欲は小さく野菊のごとく』(2014年)を刊行している
- プロフィール欄には1935年生まれで2025年9月2日に90歳で逝去と記載がある
- 総括として舞台発の繊細な演技と軽やかな筆致で長年愛された名優であり晩年まで清新な存在感を示した
















