かつて「クセ者」と呼ばれ、巨人を支えた元木大介さん。近年は「激やせした?」と話題になりましたが、病気ではなく、健康を意識した減量によるものでした。虫垂炎をきっかけに体を見直し、食事とお酒を控えたことで自然にスリムになったと明かしています。
現役時代は豪快なプレーと人懐っこい笑顔でファンを魅了し、引退後もタレントやコーチ、そして指導者として精力的に活動。さらに、息子2人が野球選手として父の背中を追いかけており、長男は東海大学でプレー、次男はジャイアンツジュニア出身で全国優勝も経験する実力者です。
野球一家としての絆と、今なお輝きを放つ元木さんの「今」と「昔」を徹底紹介します。
この記事でわかること
- 元木大介さんが「激やせ」した理由と健康への取り組み
- 「病気説」が浮上した背景と本人のコメント
- 長男・翔大さんと次男・瑛介さんの現在の活躍
- 若い頃の甲子園での活躍と“クセ者”誕生エピソード
- 現在の活動(タレント・指導・社会貢献)の全貌
【画像】元木大介は病気で激やせ?息子はなにしてる?
元木大介さんの「激やせ」は病気ではなく、虫垂炎を機に始めた食事見直しと節酒による減量と本人が説明。
2018年頃と比べてスリムになった近影がInstagramで話題となりましたが、「健康のため」で「少し戻すことも考えている」とのこと。
家族では長男・翔大さんが東海大硬式野球部でプレー、次男・瑛介さんは世田谷西リトルシニア主将として全国選抜優勝とMVPを獲得。親子で野球に打ち込む近況をまとめます。
元木大介は病気で激やせ?
引用元:ORICON NEWS
引用元:Instagram
元読売ジャイアンツの選手であり、現在はタレントとしても活動する元木大介さんの、“激痩せぶり”が話題になっています。一部では「病気では?」と心配の声も上がっていますが、実際はどうなのでしょうか?
元木さんは現役時代、身長180cm・体重約90kgのがっしりとした体格でグラウンドを駆け回っていました。現役引退後もしばらくは大きな体格を維持しており、2019年から2023年頃まではテレビ出演時にもふくよかな印象が強く残っていました。
上の画像は2018年頃のものと2025年5月のInstagramです。2025年3月10日、元木さんがご自身のInstagramに投稿した1枚の全身写真がネットで大きな話題になりました。「誰かわからなかった!」「痩せすぎて心配…」など、ファンの驚きと不安の声が殺到したそうです。
2025年4月、元木さんは自身のYouTubeチャンネルとJ-CASTニュースのインタビューで、痩せた理由についてお話しされています。
痩せた理由は「自分の健康のために体重を落としてただけ」。2020年、巨人のヘッドコーチ時代に虫垂炎を患ったが、その時に「ちょっと痩せてすごい楽になった」として、こう語った。
「コーチ辞めてそういうの(ダイエット)もやってみようかなと思って、自分なりに食事を減らしたり、お酒も少なくしようかなと思ってやってたら、いい感じで落ちてきてる」
引用元:JCASTニュース
それでも、「痩せてしまうと、ちょっと老けちゃうね」とお話しされ、心配の声も多いことから「もうちょっと増やそうかなって、逆に思ってる」ということでした。
けん健康のためにダイエットされたことで、久しぶりに顔を見た人たちがその変化に驚いたんだね。
のぞみやっぱり選手時代のイメージが強い人が多いからよね。
「自分で健康のために、ちょっとずつ落ちていかないかなっていう感じでやってたので、皆さん心配かけてすみませんでした。元気っす俺」とお話しされているから、安心して見守りましょう。
元木大介の息子はなにしてる?
引用元:スポーツ報知 婦人公論.jp
引用元:X Yahoo!ニュース@METALLUCA666 そういや元木大介の息子…
— 戦闘員𝕏(📛でじぶー) (@dejiboo1) January 28, 2020
ジュニア野球の最優秀選手にも選ばれた才能ある子供らしいけど
着てるTシャツに不穏な感じが… pic.twitter.com/17PHUcRgcX
元木大介さんと奥様のフリーアナウンサー大神いずみさんの間には、2人の息子さんがいます。
長男、翔大さんは、2006年1月10日生まれの2025年現在19歳。幼い頃はサッカーに夢中だったそうですが、小学校3年生の時に、突然「野球、やってみたい」と言い出したと母である大神さんがお話しされていました。
高校時代は、野球の名門履正社高校で腰の不調に悩まされ、最後の夏は甲子園のスタンドで迎えたそうです。そして高校卒業後は、東海大学に進学し、硬式野球部に所属。現在は大学リーグで活躍中です。
次男の瑛介さんは、2010年生まれの2025年現在14歳。小学生時代には、NPB(日本野球機構)のジャイアンツジュニアに選ばれ、父と同じ背番号2番をつけて活躍しました。
現在は中学3年生で世田谷西リトルシニアに所属しており、第31回日本リトルシニア全国選抜野球大会にも出場。世田谷西主将としてチーム引っ張り優勝に導き、MVPも獲得しています。
2人の息子さんは父親の元木さんの背中を追って、現在野球に励んでいるようです。
けん息子さん2人ともが野球をされているのは、きっと元木さんも嬉しいだろうね。
のぞみ本人たちはプロになりたいと話してはいるけれど、苦しいことが多いから、これから先悔いのないように野球に向き合って、プロにならなくとも、ユニフォームを脱ぐ時に楽しかったと思ってくれたら良いとお話しされていたわ。
【画像】元木大介は若い頃イケメン!
少年期はジュニアホークスで腕を磨き、小6で王貞治さんに声をかけられ巨人志望に。上宮高では3度の甲子園に出場し、「超高校級スラッガー」と端正なルックスでアイドル的人気を獲得しました。
涙のドラフト騒動からハワイ留学を経て巨人単独1位で入団。プロでは“クセ者”として勝負強さを発揮し、2000年の優勝にも貢献。引退後はメディアや指導者として活動し、現在は後進育成や社会貢献にも力を注いでいます。
10代(1981年〜1991年)
引用元:婦人公論.jp
元木大介さんは少年時代、南海ホークスファンで、南海OBによって運営されていた少年野球チーム・ジュニアホークスに入っていました。
ところが小学6年生の時、後楽園球場で当時巨人の監督だった王貞治さんと対面し、一緒に記念撮影をした際、「プロ野球に入るなら巨人に来いよ」声をかけられたことに感激して以来、巨人ファンになったそうです。
上の画像は小学生頃のものです。小学4年生からはレギュラーで、片道2時間かけてリトルリーグに通っていたそうです。可愛らしい笑顔に、現在の元木さんの面影がありますよね!
引用元:スポーツ報知 日刊スポーツ
元木大介さんは、1987年(当時15歳)上宮高校に入学し、高校時代は3回の甲子園を経験します。(甲子園大会の結果は、2年生の春がベスト8、3年生の春が準優勝、3年生の夏がベスト8)元木さんは走攻守三拍子そろった大型遊撃手として注目を集めました。
スポーツができ、さらに爽やかな笑顔で女性ファンを虜にした元木さんは、地方の試合でも女子が殺到し、授業中にも他校の女子生徒が押し寄せたこともあったそうです。甲子園の記事にも元木さんについて『色白のイケメン。まさに人気と実力、強さと儚さを兼ね備えたアマ球界No.1内野手だった』と評されていました。
上の画像は1989年(当時18歳)のものです。この年はホームランバッターとしても大活躍し、スター選手としても話題性が抜群でした。大阪・上宮高の「超高校級スラッガー」と評価され、3度出場した甲子園で絶大なアイドル人気を獲得した元木さんでしたが、巨人のスカウトからの1位指名の約束が反故にされ、悔しさのあまり涙しました。
この後、ダイエーが野茂さんの外れ1位で元木さんを指名しましたが正式に断り、7ヶ月のハワイ野球留学を決行されました。
引用元:週刊ベースボールONLINE
1990年(当時19歳)この年から新高輪プリンスホテルが会場となったドラフト会議は、前年巨人を熱望しながらも夢が叶わず、指名されたダイエーの入団を拒否していた元木大介さんが注目されていました。
元木さんは、この年巨人の単独1位指名が確定したとき、うれしさより安堵感の方が強かったそうです。「契約金の9000万円はすべて両親に渡しました。親戚に頭を下げてハワイへの留学資金を工面してくれた両親へのせめてもの親孝行のつもりでした」とお話しされ、ご両親への感謝をされていました。
上の画像は滞在先のハワイの時のものです。前日に正力オーナーが元木さんの1位指名を公言したと人づてに聞いても安心できず、前年の事もありとても不安だったそうです。
けん元木大介さんは、野球留学にどうして海外を選んだのかな?
のぞみダイエーへの入団を正式に断ってから、マスコミからの大バッシングを受けることになってしまったそうなの。
それで逃げるように海外へ向かったそうよ。「マスコミからのバッシングから逃れたい、ひとりになりたい、その一心からでした」とお話しされているわ。
といっても、ハワイでの生活環境、練習環境はひどいものだったそうなんだけど。
常に誰かに監視されているような生活です。カメラのレンズに怯え、ベランダに洗濯物も干せないと嘆くおふくろは体調を崩し、ボクは自宅に引きこもるようになりました。外に出て、報道陣の問いかけを無視すれば「横柄だ」と書かれ、口を開けば「生意気だ」と叩かれるんですから、本当につらかった。
巨人を逆指名しながら他球団に入団して、ウソツキだと批判されるのならまだ分かります。なんで片思いした巨人にフラれ、公言通りの信念を貫く自分が犯罪者のように扱われるのか。完全に人間不信に陥りました。
引用元:日刊ゲンダイDIGITAL
20代(1991年〜2001年)
引用元:週刊ベースボールONLINE スポニチアネックス
元木さんは1992年(当時21歳)から一軍で出場されます。バッテリーを除く全てのポジション(主に内野)を守れるユーティリティープレイヤーとして活躍するようになりました。
1991年のルーキーイヤーでは体力不足や怪我に悩まされ、一軍での出場はなく二軍スタートで、さらに屈辱の三軍落ちまで経験しました。プロの壁は高かったようです。元木さんも「1年間のハワイでのトレーニングで、自分では体力に自信はあったのですが、今思えばやっぱりプロの体ではなかったということなのでしょうね」とお話しされています。
上の画像は1991年、1992年の時のものです。紅白戦で見せたお粗末な守備に、長嶋監督からの愛の鞭が飛んだそうです。1992年は本当の意味で、プロ選手のスタートを切った年になりました。
引用元:スポニチアネックス
元木大介さんは、上宮高校時代から隠し球でアウトを奪ったり、プロになってからも1994年(当時23歳)の阪神戦で、桑田真澄投手の牽制がきっかけとなり、元木さんはショートから巧妙な隠し球でランナーを刺した事もありました。他チームの選手が「イラッとくる」と評するようなプレーで戦局をかき乱す存在として知られていきました。
ある試合後、記者に囲まれて「(長嶋)監督が“クセ者”って言ってますけど、どうですか?」と質問され、初めて監督からニックネームを付けられていたことを知ったそうです。ところがその場では”クセ者”の意味が分からず、「監督に嫌われてるのかな」と心配になって家に帰って辞書で調べたそうです。
上の画像は1996年のものです。長嶋監督から“クセ者”と重宝され、可愛がられた元木さんは、直接「みんなに言うなよ。ひがむから」と300万円もするフランク・ミュラーの高級腕時計をサプライズでプレゼントされたことがありました。
引用元:婦人公論.jp
2000年(当時29歳)優勝マジック『1』で迎えた9月24日の中日ドラゴンズ戦にて、劇的な逆転サヨナラ勝利でジャイアンツがセ・リーグ優勝を飾りました。元木さんは2番・左翼手として先発出場し、巨人4点ビハインドの9回、ライト前ヒットで出塁して、巨人が4年ぶりにリーグ優勝を決定する口火を切りました。
元木さんはこの年の1月、当時日本テレビの人気アナウンサー大神いずみさんと入籍し、シーズン終了後の12月2日に結婚式・披露宴を行いました。その模様はテレビで生中継され、仲人は長嶋茂雄夫妻が務められたそうです。
上の画像は2000年の結婚披露宴の時のものです。大神さんとは1999年にグアムの番組で共演し、帰りの飛行機の席が偶然隣になったことで接近したそうです。
飛行機が苦手で座席で青ざめていた元木さんに、大神さんが「CAさんに頼んでワイン飲んじゃいましょう。寝ちゃいましょう、2時間半くらい」と勧めたことがきっかけでした。結局話が盛り上がり、着陸するまでに8本くらい空けてしまったそうです。
けん元木さんは連絡先を交換した後、かけた電話で「付き合ったら、結婚しようと思って付き合ってるから、今日だけ付き合うとかはないんだよね」と話していたそうだよ。
のぞみ「もっとチャラチャラしてて、女の子を取っかえ引っかえな世界なんだろうなと思ってた人が、そうでもないのかな」と、その言葉が大神さんにとって好印象だったことも結婚の決め手みたいね。
30代(2001年〜2011年)
引用元:日刊ゲンダイDIGITAL
2005年(当時33歳)堀内恒夫監督のチーム若返りの方針により、後半戦は戦力構想から外れ、2軍での再出発を決意しました。そして、同年の9月25日「明日、帝国ホテルに行ってくれ」と二軍マネージャーからの電話が鳴り、翌26日にその場で球団代表から来季の構想から外れていることを告げられたそうです。
12月には34歳の誕生日を迎えるが、技術はもちろん体力的にもやれる自信はあったので、「最終年はもう終わりだなと思った。イライラしたけどね。まだできるよって」と当時の心境をお話しされています。ですが、複数の球団からの誘いがあったにもかかわらず「入団したときからこのチームでいらないと言われたら辞めようと決めていた」と、引退を決意されました。
上の画像は引退試合後、最後の胴上げシーンです。当日は元木さんの背番号『2』のプラカードや『巨人一筋スーパーサブ』という横断幕を掲げてくれたファンが多いように感じられ、改めてファンのありがたさを感じ、悔いなくバットを置くことができたそうです。
引用元:X昨日の #モクシチマルバツブ に元木大介さんの回に、ヘキサゴンの映像が出てきてびっくりしました!!#ヘキサゴン #元木大介 pic.twitter.com/e3OaOkynD3
— 🌟🪄アニ☆スタNEW🏵️(※本物) (@h3KJU2VeKC31005) January 26, 2024
引退後、野球解説者、バラエティ番組に出演するタレント、Vシネマ中心の俳優業などで活動を始められました。2006年(当時35歳)TBSラジオ野球解説者、スポーツ報知評論家となリました。30代半ばの時期は若いこともあり、中継の際は必ず年上・年下問わず「◯選手」と言うように気をつけていたそうです。
2007年(当時36歳)にはマスターズリーグ『東京ドリームス』に内野手として登録されました。背番号は現役時代と同じ2番です。プロ野球マスターズリーグは、日本のプロ野球OBがプロ野球のシーズンオフに行っていた野球の興行で、5つのチーム(札幌アンビシャス、東京ドリームス、名古屋80D'sers、大阪ロマンズ、福岡ドンタクズ)が組織されています。
上の画像はバラエティ番組『クイズ!ヘキサゴンⅡ』の時のものです。クイズバラエティ番組で、元木さんはおバカキャラとしてブレイクされました。番組内では愛称として「モッキーナ」とも呼ばれていたようです。
けんそういえば入団当初は俊足という評価があったみたいだね!
のぞみそれで、代走として起用されることもあったそうなんだけど・・・
実際は自他ともに認める鈍足だったみたい。
でも、「手の癖や配球を考えた上での走塁技術には自信はあった」とお話しされているの。
さすが、”くせ者”ね!
40代以上(2011年〜)
引用元:ORICON NEWS
2014年(当時43歳)2010年から開業していたラーメン屋『元福』の3店舗が全て閉店してしまいました。
この時の失敗や反省などを上の画像2015年(当時44歳)バラエティ番組『しくじり先生 俺みたいになるな!!』で教訓としてお話しされました。“元木”に“福”があるようにと名付けられたラーメン屋『元福』は元木さんの念願のラーメン店だったそうです。「ラーメン界の新人王を取りたい」と意気んで店舗拡大までしましたが、4年で全て閉店させてしまいました。
元木さん自身が「甘かった」と語るように、飲食業は野球以上に奥が深く、マネジメントには細心の注意が必要だったようです。この失敗は監督・オーナーとしての在り方に通じる人を動かす難しさや現場を信じすぎない姿勢など、多くの教訓を元木さんに残しました。
引用元:Instagram
2019年(当時48歳)元木さんは以前から希望していた巨人の一軍内野守備兼打撃コーチに就任され、13年ぶりの球界復帰となりました。背番号は星野仙一さんの番号から取った『77』がつけられ、2020年から2023年までは一軍のヘッドコーチ・オフェンスチーフコーチ・作戦兼内野守備などに携わりました。
上の画像は2024年(当時53歳)巨人が子どもたちに野球指導するスクール『ジャイアンツアカデミー』の校長に就任された時のものです。「元木さんはやっぱジャイアンツに関わってくれないと困る」「どんな形でも、ジャイアンツに関わってくださるだけで、ほんまに嬉しい」「おめでとうございます!元木さんが校長だと楽しくなりそうですね!」とフォロワーからも喜びの声が上がりました。
けん現在は子どもたちに指導しながら、タレント業も復帰されてるんだよね?
のぞみフリーの野球解説者もされているわ。
そして2024年10月に発足した自身のNPO法人『MOTOKI FOUNDATION』で、代表理事としても活躍中よ。
2025年6月には能登半島地震の被災地で炊き出しを実施し、仮設住宅の方などへ支援料理の無料提供を行ったんですって。
元木大介のプロフィール・SNS
引用元:Yahoo!ニュース
プロフィール
- 名前:元木大介(もときだいすけ)
- 生年月日:1971年12月30日
- 年齢:53歳(2025年10月現在)
- 出身地:大阪府
- 血液型:O型
- 趣味:車・時計
- 特技:野球
- 所属事務所:アワーソングスクリエイティブ
SNS
- Instagram URL:https://www.instagram.com/daisuke_motoki2/
- YouTube URL:https://www.youtube.com/@daisuke_motoki
けん元木さんは『スニーカーヘッズ』なんだって。ナイキのスニーカーをたくさん持っているみたいだよ。
のぞみ 熱狂的なスニーカーコレクターのことよね。
特に希少性が高く、入手困難なスニーカーを所有、購入、販売する人のことらしいけど、元木さんも所持するスニーカーは数知れず、常に新作のチェックも欠かさないんですって。















