阿木燿子さんの「顔が変わった?」という声について、病気や美容医療の公表は見当たらず、断定できる事実はありません。
写真ごとの印象差は、年齢に伴う肌・筋肉・脂肪の変化に加え、メイク・照明・撮影角度、水分や食生活など日々のコンディションが重なって生じるのが実態に近いでしょう。むくみのように見える日があっても、それが直ちに疾患を意味するわけではありません。
むしろ阿木さんは、長年にわたり作詞家・女優・監督として挑戦し続ける“生き方の凛々しさ”が外見にも滲み出るタイプです。若い頃から整った顔立ちと品の良さで知られ、現在も知性と佇まいが魅力です。
私生活では明治大学の軽音楽部で出会った宇崎竜童さんと1971年に結婚。互いへの敬意を軸に公私で名コンビとなり、「港のヨーコ、ヨコハマ・ヨコスカ」「横須賀ストーリー」など数々のヒットを生みました。本記事では“見え方の変化”の要因整理から、馴れ初め、若い頃のエピソード、受賞歴まで一気に整理します。
この記事でわかること
- 阿木燿子「顔が変わった?」の主な要因(加齢・メイク・照明・撮影条件・体調)
- 病気・整形を示す公的発表が見当たらないことと、断定を避けるべき理由
- 宇崎竜童との馴れ初め(明大軽音→交際→同居→1971年結婚)と長続きの秘訣
- 若い頃が「美人」と評される根拠と、代表作(港のヨーコ/横須賀ストーリー等)の歩み
- プロフィール・受賞歴の要点(生年・活動領域・主な受賞)
【画像】阿木燿子は現在顔が変わった?
阿木燿子さんの顔が最近パンパンに張れていて、何かの病気ではないか?と心配の声もあがっています。もともと目鼻立ちがはっきりとしているお顔なので、加齢によっての変化なのでしょうか。

以下、変化の原因として考えられる要素を整理してみました。
- 加齢による肌・筋肉・脂肪の変化
年齢を重ねることで、頬の張りが減り、皮膚や筋肉の支持力が低下することで、相対的に“鼻やマスク部分(ほお骨まわり・目まわり)”が強調され「顔が大きく見える・パンパンに見える」印象を与える場合がある。 - メイク・照明・撮影条件の影響
最近の写真ではライトの当たり方・撮影角度・メイクで「頬のハイライト」「目元の陰影」が強く出ており、それが“張れている”“むくんでいる”と感じられる見た目になっている可能性がある。 - 健康・美容意識の変化
阿木さん自身、食事や水分、運動(フラメンコ・ストレッチ)など健康・美容面に気を使っていることが報じられていて、 例えば「1日2リットルの水」「数十種類の野菜を食べる」などを実践しているとの記載もあるため、肌にハリを出そうとするケアが、逆に“厚み”ある印象を生んでいる可能性がありますね。 - 整形・美容施術の疑問
明確な証拠はありませんが、一部ネットでは「顔が変わった」「鼻が大きくなったように見える」等の書き込みも。 ただし、医療機関や本人から「整形しました」といったコメントや確証はなし。
現時点で、阿木さんに関して「顔の張れ=病気」という公的な発表・報道は確認できません。まとめサイトにも「今のところ大きな病気はない」旨が記されており、 信頼できる情報ソースにも“病気のために顔が変形・腫れている”という言及はありません。
つまり、顔の変わったように見える印象は、加齢・撮影条件・美容ケア・個人の体調など複数の要因が複雑に重なったものと考えるのが現実的です。
阿木燿子さんは、確かに最近「顔が以前より張って見える」「印象が変わった」と感じられるのは、“病気”や“整形”と断言できる根拠はなく、むしろ「年齢を重ねたなかでの肌と筋肉の変化」「撮影条件・美容施術による視覚的変化」がその印象を生んでいる言えるでしょう。
ギモンくん阿木燿子さんは、どんなふうに健康を維持してるのかな?
カイケツさんそれは、料理が得意という理由から、食事には気を付けていてカロリーやバランスを考えた野菜中心の食事を作っているみたいよ!
阿木燿子と夫・宇崎竜童の馴れ初めは?
大学時代、宇崎さんが先輩から軽音楽部の勧誘を指示され、はじめに声をかけたのが阿木さんでした。
今も素敵だけれど、若い頃の阿木燿子さんの超美しいことよ💕
— ふんわり卵 (@noho_hon1029) March 7, 2022
そりゃ、宇崎さんが惚れるはずだわ😍
話し方も美しくてお上品だし、ホントに素敵な女性✨#徹子の部屋#宇崎竜童 #阿木燿子#結婚50周年 #金婚式 pic.twitter.com/7H03fHHTZy

宇崎さんは声をかけた瞬間に「この人何回も前世で会っていて、やっと会えた!もしかしたらこの人俺の嫁になる人じゃないかな」と思ったそうです。その後、阿木さんが軽音楽部に入部し大学2年の時に交際がスタートしました。
そこからは知らず知らずのうちに一緒に住み始め、出会ってから7年ほど経った時に、「そろそろ(結婚したら)」と両親に促され結婚しました。
ギモンくん阿木さんが宇崎さんと長く夫婦の関係を続ける秘訣は何だったのかな?
カイケツさんそれは、お互いに尊敬しあえる関係性という理由から、愛するだけでは時に支配的になってしまうことがあるけど、尊敬しあっていたら夫婦関係を長く維持できるということだね!
【画像】阿木燿子は若い頃美人!
阿木燿子さんが“美人”と評される理由は、整った顔立ちに知性と自立心が宿り、年齢を重ねてもなお凛とした品格を保っているからです。幼少期から手芸や料理など創作に親しみ、繊細さと感性を磨いたことで、自然体ながらも芯のある女性像を作り上げられました。
学生時代に培った知的好奇心と、宇崎竜童さんとの出会いで開花した表現力が、外見にも深みと自信を与えました。作詞家・女優・監督として挑戦を続ける姿勢は、内面の輝きを増幅し、どの年代でも“生き方が顔に出る美しさ”を体現。華やかさの中に知性と情熱を併せ持つ、それが阿木燿子さんが今なお美しいと称される所以です。
幼少期・10代(1945年~1965年)
阿木燿子さんは、1945年5月1日に長野県長野市で生まれ、その後家族で神奈川県横浜市へ引っ越し3人兄弟(兄・妹)の長女として幼少期を過ごしていました。
子どもの頃は、人見知りが激しくて内気な女の子で、幼稚園へ行くのが本当に嫌だったそうです。しかしその反面、家の中では「内弁慶で威張っていた」と阿木さんは当時のことを話しています。
幼少期にはあまり本は読まなかったようですが童話は好きで、お人形を作ることも好きでした。阿木さんのお母さんは当時打ち直しで布団を作っており、その綿を半分もらい大きいぬいぐるみを作ったそうです。
お母さんに「これじゃあ、お布団が作れなくなっちゃう!」と言われたそうで、他にも料理と洋裁が好きだったそうで、愛読書は料理の本や手芸の本が多かったようです。
阿木燿子さんは、1958年13歳の時に、中高一貫の捜真女学校(そしんじょがっこう)中学部・高等部へ進学・卒業し、その後1964年19歳の時に、明治大学文学部に入学し軽音楽部に入部されました。そこで夫の宇崎竜童さんと出会いました。
ギモンくん阿木燿子さんは、どんな教育方針で育てられたのかな?
カイケツさんそれは、男性優位という方針で、兄のおかずが自分と妹よりも1品多いと兄とけんかしても「(女性は)常に優しくありなさい!」と母親から教えられたそうよ!
20代(1965年~1975年)
阿木燿子さんは、1969年(当時24歳)の時に、グループサウンズ・ジュリーとバロンのデビュー曲「ブルー・ロンサム・ドリーム」を作詞しました。
この時、阿木燿子さんは、宇崎竜童さんと初めて2人でレコードを作りました。その後作詞・阿木燿子と作曲・宇崎竜童のコンビで大ヒットを生み出すスタートとなる原点であったことが確認できます。
上の画像はその時のものです。この時の「ブルー・ロンサム・ドリーム」は売れることはなかったですが、とても素敵な曲でした。
阿木燿子さんは、1971年(当時26歳)の時に、ミュージシャンの宇崎竜童さんと結婚しました。

この時、阿木燿子さんは、「大学時代に知り合って、宇崎に軽音楽部に勧誘されたのが出会いです。それから知らず知らずのうちに、気づいたら一緒に住んでた」とお話しされており、お互いの両親にも「そろそろ(結婚)」とせかされて結婚したました。
上の画像は1971年ごろの時のものです。横浜から赤坂へ移り住んで、のちに事務所として使用した部屋です。

阿木燿子さんは、1975年(当時29歳)の時に、宇崎竜童さん率いるダウン・タウン・ブギウギ・バンドのために詩を書いた「港のヨーコ、ヨコハマ・ヨコスカ」が大ヒットしました。
この時、阿木燿子さんは、「この曲は私が燿子(ヨーコ)で・横浜育ちで・両親が横須賀に住んでいたので!ひらめきから歌詞が生まれた」とお話しされており、ひらめきから思いついて書いて大ヒット!この頃に、作詞家としての才能が開花されていたことが確認できます。
上の画像は「港のヨーコ、ヨコハマ・ヨコスカ」のジャケット写真です。当時、阿木さんは「ハンサムでもなく歌もうまくない宇崎が成功するはずがない。」と否定的でしたが、結成3年目にして阿木さんが作詞を手掛け大成功されました。作曲家として阿木燿子の名を世に知らしめた作品となりました。
ギモンくん阿木燿子さんは、どうしてダウン・タウン・ブギウギ・バンドへ歌詞を書いたのかな?
カイケツさんそれは、大学時代宇崎さんに頼まれては歌詞を書いていたらしくて、阿木さんの書く詩に宇崎さんが惚れ込んでいて、その思いが伝わっていたんだね!
30代(1975年~1985年)
阿木燿子さんは、1976年(当時31歳)の時に、山口百恵さんの13枚目のシングル「横須賀ストーリー」を手掛けました。
この時阿木燿子さんは、「百恵さんが小学生のころから過ごした思い出の土地、自分の両親が横須賀在住であったため最初にこのタイトルを決めた」とお話しされています。

阿木さんは作詞を行う際、タイトルがひらめいたら、曲はだいたい出来上がるそうです。阿木さんの作詞家としての才能は素晴らしいですね!この年の日本レコード大賞で日本作詞家大賞を受賞しました。
上の画像は当時の時のものです。この頃から阿木さんは作曲家として大忙しで、夫である宇崎さんも歌手として共に忙しくしていた時期でした。

阿木燿子さんは、1980年(当時35歳)の時に、映画「四季・奈津子」で女優デビューをしました。
この時阿木燿子さんは、「この映画をお受けした時から覚悟はできていました。」とお話しされており、とても難しい役柄で体を張った演技もあった中で阿木さんは女優としても才能があったことが確認できます。
上の画像は映画出演時のものです。大人っぽくて美しい阿木さんは、この作品で報知映画賞の助演女優賞を受賞し、日本アカデミー賞でも助演女優賞にノミネートされました。
ギモンくん阿木燿子さんは、どうしてこんなに多忙でもいろんなことを頑張ってこれたのかな?
カイケツさんそれは、自立した女性になりたい!と思っていたから!
小さなころは男性優位の家庭で育てられ、理不尽な思いを抱えていた阿木さんは仕事をして自立したいと思って頑張っていたみたいよ!
40代以上(1985年~)
阿木さんは、1990年(当時45歳)の時に、友人の誕生日パーティーの席で小島章司さんというフラメンコ舞踊の先生と知り合いになり、フラメンコをはじめました。
この時阿木燿子さんは、「人生の中で私が最も熱中したものの一つ」とお話しされています。

始めたきっかけは、パーティーで出会った数日後に散歩をしていると、偶然にも小島先生のスタジオの前を通りかかり、阿木さんは「そういう偶然を大事にするので!」と、その日のうちにシューズを買って小島先生のもとへ通い始めました。その後10年以上通い、ひざを痛めてやめたそうです。
上の画像は2015年(当時70歳)のとき、フラメンコ曽根崎心中の記者会見の時のものです。映画「曽根崎心中」で宇崎さんが出演し、その後ロックの楽曲で「ロック曽根崎心中」を上映しました。
そして阿木さんプロデュースでフラメンコの曲を使った舞踊劇として「フラメンコ曽根崎心中」を公演しました。

阿木燿子さんは、2006年(当時61歳)の時に、映画「TANNKA 短歌」で初の脚本・監督を務めました。本作は、日本の歌人・俵万智さんの小説を原作に阿木さんが脚本・監督として初挑戦した作品でした。
この時阿木燿子さんは、「特に戸惑いも心配もなかった。逆に気負うほどの経験もないので・・・怖いもの知らずだったんでしょうね」とお話しされており、撮影前日は普段は眠りが浅いほうだがよく寝れたといい、現場のスタッフを和ませていたそうです。初脚本・監督をやりきったことが確認できます。
上の画像は「TANNKA 短歌」DVD発売の時のものです。
ギモンくん阿木燿子さんは、どうしてフラメンコで曽根崎心中をやろうと思ったのかな?
カイケツさんそれは、スタッフの1人からやってみたら?と提案されたという理由から、当時お世話になっていた先生へ声をかけてみたら、「実は自分たちもフラメンコでやってみたいと思い企画書を提出したんですよ!」とあまりのタイミングの良さにやろう!と思ったみたいよ!
阿木燿子のプロフィール・SNS
プロフィール
- 名前:阿木 燿子(あき ようこ)
- 本名: 木村 広子(旧姓:福田 広子)
- 生年月日:1945年5月1日
- 年齢:80歳(2025年10月現在)
- 出身地:神奈川県
- 血液型:A型
- 趣味:縫い物・散歩
- 特技:料理
- 所属事務所:(有)オフィス・ドラゴン

SNS・受賞歴
- オフィシャルサイト URL:http://yokoaki.jp/index.html
受賞歴
- 日本レコード大賞
作詞賞(第18回・昭和51年)「横須賀ストーリー」
最優秀新人賞(第18回・昭和51年度)「想い出ぼろぼろ」
大賞(第21回・昭和54年)「魅せられて」
大賞(第28回・昭和61年)「DESIRE -情熱-」 - 日本作詩大賞
大衆賞(第9回・昭和51年度)「横須賀ストーリー」
作品賞(第9回・昭和51年度)「想い出ぼろぼろ」
作品賞(第11回・昭和53年度)「プレイバックPart2」
大賞(第12回・昭和54年度)「魅せられて」 - 日本レコードセールス大賞作詩賞(第10-12回・昭和52-54年)
- 報知映画賞最優秀助演女優賞(第5回・昭和55年度)「四季・奈津子」
ギモンくん阿木燿子さんの料理が得意のきっかけって何なのかな?
カイケツさん子供のころから料理の本が愛読書だったから大人になっても料理をするのは自然なことで、作ることが好きで得意になったみたいだね!
阿木燿子の顔の変化と宇崎竜童との馴れ初めまとめ
- 最近「顔が張れて見える」との声があるが印象の変化として語られている
- 加齢により頬や目周りの支持力が低下し輪郭が変わって見える可能性がある
- メイク・照明・撮影角度の影響で膨張やむくみのように見える場合がある
- 水分摂取や野菜中心など美容・健康ケアを実践とされ肌のハリが厚みの印象を生む可能性がある(報道)
- 整形や病気を示す確証はなく本人や公的な発表も未確認である
- 複数要因が重なった“見え方の違い”と考えるのが現実的である
- 馴れ初めは明治大学の軽音楽部で宇崎が勧誘し阿木が入部した経緯である
- 宇崎は初対面で強い確信を抱いたと語っており大学2年で交際が始まっている
- 同居を経て両家からの「そろそろ」との後押しで結婚に至っている
- 1971年に結婚し公私の創作コンビとしての基盤が固まっている
- 1969年に「ブルー・ロンサム・ドリーム」で作詞活動を開始している
- 1975年「港のヨーコ、ヨコハマ・ヨコスカ」が大ヒットしている
- 1976年「横須賀ストーリー」を手掛け日本作詞家大賞を受賞している
- 1980年映画「四季・奈津子」で女優デビューし報知映画賞助演女優賞を受けている
- 1990年代にフラメンコに打ち込み2006年「TANNKA 短歌」で脚本・監督に挑戦している
- プロフィールは1945年生まれで料理や手芸を好み創作と自立の志が外見の品格にも表れている
- 病気や整形の断定材料はなく創作と挑戦を続ける表現者として夫婦の相互尊敬を土台に今後の活躍が期待される

