【画像】倍賞千恵子の夫は誰?馴れ初めは?現在何してる?若い頃かわいい!

夫は作曲家・編曲家の小六禮次郎さんです。1985年のリサイタル打ち合わせで出会い、当初は意見がぶつかる間柄でしたが、舞台やコンサートでの共演を重ねるうちに信頼が深まり、1986年頃に交際、約7年の歳月を経て1993年に結婚しました。ふたりのあいだに子どもはいません。

現在の倍賞千恵子さんは、コンサートやトークイベントに加えて女優としても精力的に活動。「PLAN 75」など近年作でも存在感を示し、国内外の映画祭で評価されています。1

0代から磨いた歌と芝居の二刀流は、SKD首席卒業、映画『下町の太陽』や『男はつらいよ』の“さくら”役へと結実。乳がんや脳動脈瘤の手術を乗り越え、北海道・別海町での暮らしを楽しみつつ、今も第一線で輝きを放つ――そんな半生と夫婦の歩み、若い頃の貴重なエピソードまで一気に整理します。

この記事でわかること

  • 夫・小六禮次郎さんとの出会い〜1993年の結婚までの時系列
  • 子どもの有無や夫婦の現在の関係・共演エピソード
  • 最新の活動:コンサート、映画「PLAN 75」など近年の評価
  • 若い頃の軌跡:童謡デビュー〜SKD首席〜『下町の太陽』『男はつらいよ』
  • 病気克服と北海道・別海町での暮らし(観光大使)のトピック
目次

【画像】倍賞千恵子の夫は誰?馴れ初めは?

倍賞千恵子さんの夫は、作曲家で編曲家の小六禮次郎さんです。

お二人は1985年の倍賞さんのリサイタルの打ち合わせが出会ったきっかけです。音楽パートナーを探していて紹介されたのが小六禮次郎さんでした。打ち合わせでは頷くだけだった小六さんが仕上げた曲は難しく、歌えないというと怒って反論されたそうです。

最終的に倍賞さんが譲る形で曲を修正してもらったのですが「もうこの人とは仕事しない」と思うほど、最初の印象は最悪だったそうです。

倍賞千恵子さん
引用元:スポニチ

しかし舞台やコンサートで顔を合わせる機会が増え「これも何かの縁か」と受け入れ、仕事を重ねるたびに相性が良いと感じ始めたそうです。理論派の小六さんと感覚派の倍賞さんは意見がぶつかることもありましたが、音楽を共有することで距離を縮めて行きました。

倍賞千恵子さん
引用元:スポニチ

1986年頃に交際を始め、約7年の交際を経て1993年に結婚しました。結婚後は倍賞さんのコンサートに小六さんも出演しており、お仕事も一緒にされています。

けん

倍賞さんと小六さんの間にお子さんはいるの?

のぞみ

二人の間にお子さんはいないみたい。
倍賞さんが子供について語ることはほとんどなく、再婚当時は50歳を超えていたから子供を持つという選択肢がなかったのではないかな。

倍賞千恵子は現在何してる?

倍賞千恵子さんは現在コンサートやトークショーを中心に、女優として今もなお活動しています。

2023年(当時82歳)の時にイタリアの映画祭で生涯功労賞を受賞。2024年(当時83歳)の時にNetflixで配信された「PLAN 75」では9年ぶりとなる主演を務め、作品は第75回カンヌ国際映画祭に出品されるなど、国内外で活躍を続けています。

倍賞千恵子さん
引用元:日テレNEWS

「PLAN 75」を見た視聴者からは「昔と変わらず綺麗だ」「自然体でいい年の取り方をしている」「一生女優だ」と現在の姿も絶賛されていました。

けん

ずっと作品に出続けているんだね。

のぞみ

1990年代は今までより出演作品が少なかったけど、活動を休止していた情報もなく、デビューしてからずっと活動しているみたい。
今年(2025年)に公開の映画「TOKYOタクシー」でも活躍だったね!
このまま生涯女優でいてほしいね。

【画像】倍賞千恵子は若い頃かわいい!

倍賞千恵子さんは、幼い頃から歌の才能に恵まれ、"のど自慢荒らし"と呼ばれるほどの実力を持つ童謡歌手として活動していました。

1954年、13歳のときに童謡「ひばりの赤ちゃん」でデビュー。歌や踊り、三味線など幅広い芸事を学びながら、松竹音楽舞踊学校を首席で卒業し、松竹歌劇団(SKD)に入団します。端正な顔立ちと抜群の表現力で舞台でも注目を集め、首席入団生の証である「バトンガール」の初代を務めました。

若い頃の倍賞さんは、清楚で芯の強さを感じさせる美しさが印象的。後の女優としての活躍にも通じる“芸と心”をこの時期に磨き上げています。ここから、映画界に羽ばたく転機を迎えていきます。

10代(1951年~1961年)

倍賞千恵子さんは、幼少期から歌がお上手で「のど自慢」荒らしと言われた童謡歌手でした。疎開先で赤城の子守唄を歌っていた倍賞さん。初めてマイクの前で歌を披露したのは、小学生の頃に学校放送ができた時だったそうです。

1954年(当時13歳)の時に、SPレコードから童謡「ひばりの赤ちゃん」で童謡歌手デビューを果たしました。その後みすず児童合唱団に入団し、巣鴨から表参道に通っていたそうです。

倍賞千恵子さん
引用元:日本経済新聞

電車に乗って通っていた倍賞さんは、鉄道の運転士を務めていた父の電車に会ったときに「窓開けて!と言うと開けてくれて、夏だったんだけど、その風を浴びながらお父さんが運転している電車の中で凄く誇らしいというか、嬉しかったのを覚えている」とお話しされていました。

上の画像は幼少期の倍賞千恵子さんです。可愛らしい女の子ですね。

倍賞千恵子さん
引用元:日本経済新聞

1957年(当時16歳)の時に、両親の勧めで「松竹音楽舞踊学校」に入学しました。歌や踊りにお芝居と芸事に励む3年間で、三味線が好きだったそうです。

1960年(当時19歳)に「松竹音楽舞踊学校」を首席で卒業し、「松竹歌劇団(SKD)」に13期生として入団しました。若くして逸材と注目されていたそうです。同年にグランドレビュー「東京踊り」で初舞台を踏みました。

この年から首席入団生にフィナーレの先頭を切って大階段を降りる「バトンガール」の栄誉が与えられることとなり、倍賞さんが初代を勤めました。

舞台では、網タイツを履いて足を上げた瞬間に靴を客席に飛ばしてしまったことがあるそうで、共演者全員の部屋を謝りに回ったそうです。厳しいルールがある中にも「挨拶の仕方とか社会的なことを初期に教えてもらってすごくよかった」と松竹歌劇団への感謝を語っていました。

けん

松竹音楽舞踊学校では三味線もやっていたんだね。他にも何かやっていたのかな?

のぞみ

三味線の他にギターや太鼓もやっていたみたいだよ。
踊りはタップダンスにクラシックバレエ、日舞といろいろ習っていたみたい。
学校では「今につながる基礎を叩き込まれたと思う」とお話しされていたよ。

20代(1961年~1971年)

倍賞千恵子さん
引用元:ナタリー

1961年(当時20歳)の時に、松竹映画からのスカウトを受け、松竹歌劇団を退団。中村登監督の「斑女」で映画デビューを果たしました。上の画像は「斑女」の時のものです。横顔がとても綺麗ですね。

スカウトを受けた当時を振り返り「(映画を)見るのは嫌いじゃなかったけど、カメラの前でお芝居するっていうことが頭の中に全然なかった」とお話されていました。大きな舞台で歌って踊ることを楽しみにしていた倍賞さんは、海に向かって「バカヤロー!映画なんて大っ嫌いだ!」と叫んだことがあるほど葛藤していたそうです。

1962年(当時21歳)の時に「下町の太陽」で歌手としてデビューしました。楽曲が大ヒットした翌年の1963年(当時22歳)に「下町の太陽」が山田洋次監督で映画化されました。倍賞さんは主演を務め、楽曲は主題歌となりました。同年の第4回日本レコード大賞では新人賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも4年連続出場しました。

「下町の太陽」に出演して以降、山田監督の作品に欠かせない庶民派女優となりました。これまでに170本以上の映画に出演していますが、3分の1は山田洋次監督の作品なのだそうです。山田監督の初期の作品ではほとんど倍賞さんが主演やヒロインを務めています。

2023年にYouTubeで「下町の太陽」の予告編が公開されていました。20代の倍賞さんとてもお綺麗ですね。芝居と歌の両輪でやっていこうと決めたのは、「下町の太陽」をリリースした時で、当時は周りから「「二兎を追うものは一兎をも得ず」だと言われましたが、「いえ、私は二兎を追います!」なんて偉そうなことを言っていた」とお話しされていました。

倍賞千恵子さん
引用元:CINEMACLASSICS

1969年(当時28歳)の時に公開した映画「男はつらいよ」では、主人公車寅次郎の妹さくら役を演じ、人気を不動のものにしました。当初「男はつらいよ」は1作で終わる予定だったそうですが、全50作となる大人気シリーズとなりました。

倍賞さんは「"男はつらいよ"という山田さんの作品を通じて、渥美清さん演じる寅さんの体を通して、社会とか人間のあり方を学んだ。私は人生の学校を27年かけて卒業したけども教えてもらって良かった」とお話しされていました。

上の画像は1969年の第1作目のものです。50年にもわたり「諏訪さくら」を演じてきた倍賞さんは、撮影前に必ず鏡の前で“さくらにな~れ、さくらにな~れ”と、自分に言い聞かせ自己暗示をかける「儀式」を行っていたそうです。

けん

「下町の太陽」は歌が先にヒットしてから映画が制作されたんだね。

のぞみ

この時代は歌がヒットして映画が制作されるのが主流だったみたいだよ。
倍賞さんは他にも「さよならはダンスの後に」が歌から映画制作されている作品があったよ。
主題歌を務めた映画もたくさんあって、女優と歌手の二刀流で活躍していたよ。

30代(1971年~1981年)

上の画像は1972年(当時31歳)に放送されたドラマ「幸福相談」で主演を務めた時の写真です。山田洋次監督とのタッグで映画のイメージが強いですが、倍賞さんは、ドラマや舞台にも数多くの作品に出演されています。ドラマでは主役やヒロイン役も多く、日本を代表する名女優となりました。

倍賞千恵子さん
引用元:千葉テレビ

1976年(当時34歳)の時に、単独で記者会見を開き、舞台「屋根の上のヴァイオリン弾き」で共演した俳優の小宮健吾さん(当時は小宮守)との婚約を発表されました。

その後、音沙汰がなく破局したのではないかとの噂があったそうですが、交際は順調に進み同年3月に軽井沢で小規模の結婚式を行いました。参列者はお互いの両親と付き人やマネージャーの8人のみで、神父の前で指輪を交換するだけの式だったそうです。

しかし4年後の1980年(当時38歳)の時に離婚しました。2人揃って離婚会見を開きましたが、明確な離婚の理由についてお話しすることはなかったそうです。噂では、収入も役者としても格が上だった倍賞さんと小宮さんの格差を埋めることができなかったのではないかと言われています。

倍賞千恵子さん
引用元:ナタリー

1977年(当時35歳)の「幸福の黄色いハンカチ」や1980年(当時38歳)の「遙かなる山の呼び声」1981年(当時39歳)の「駅 STATION」と続けて山田洋次監督の映画に高倉健さんと共演しました。上の画像は3作目の「駅 STATION」の時のものです。

これらの作品で国内の映画賞を総なめし、”倍賞さんと高倉さんは「ゴールデンコンビ」と言える関係だ”と映画記者がお話しされていました。

そんな倍賞さんと高倉さんは「駅 STATION」の撮影中に交際していると報じられたことがありました。

決定的な瞬間は撮影されてておらず、報道が出た翌週に高倉さんが会見を開き「自分が決意する前にマスコミに先取りされてしまったことが心外なんです。今後は(ふたりの仲が)どういうふうに進んでいくのか、私にはまったくわかりません。ふたりは仲のよい友達なんです」と交際を否定しました。

ですが、倍賞さんの別荘がある箱根で会っていたり3年ほど交際していたようです。

けん

倍賞千恵子さんと高倉健さんはビックカップルだね。

のぞみ

映画界の周りも認知していたみたいで、結婚してくれたらいいなという雰囲気があったみたいだよ。
残念ながらお別れしてしまって破局理由も明確ではないけど、報道がなければまた違った関係性だったのではないかと言われているみたい。
ゴールデンコンビと言われていたから、もっと共演作を見たいと思っていた人も多かったんじゃないかな。

40代以上(1981年~)

2001年(当時60歳)の時に自身の胸のしこりから乳がんが発覚されました。しこりに気づいたのは北海道で雪かきをした日の夜だったそうです。

目薬が切れて翌日病院に行きしこりがあることを先生に相談したところレントゲンでがんらしき物を発見し、注射で細胞を摂取しました。その時の結果は、がん細胞に当たらず「何もない」と言われたそうですが、どうしても気になり東京の主治医に診てもらったところがんが見つかりました。

倍賞千恵子さん
引用元:アメーバブログ

すぐに大学病院に入院し、乳房温存手術を受けました。10日ほどで退院でき、その後は放射線治療を行なっていたそうです。

2005年(当時64歳)頃からピンクリボン活動に参加。同じく乳がんを発症した山田邦子さんが立ち上げたスター混声合唱団のメンバーとしてもがんの啓発活動を始めました。それまで乳がんを患ったことは話していませんでしたが、隠していたわけではなく、山田邦子さんからいろいろ相談があったことがきっかけでお話しされるようになったそうです。

倍賞千恵子さん
引用元:日本経済新聞

映画「家族」や「遙かなる山の呼び声」の撮影で訪れた北海道中標津町が気に入り、年末年始は1人で近くの養老牛温泉で過ごすのが恒例となっていた倍賞さんは、1992年(当時51歳)の時に中標津町に隣接する別海町に別荘を建てました

現在は1年の3分の1は別海町の別荘で過ごしているそうで、2013年(当時72歳)の時に夫の小六禮次郎さんと共に別海町観光大使になりました。別海町の魅力を歌った「別海讃歌」を夫の小六禮次郎さんが作詞作曲、倍賞千恵子さんが歌っています。別海町のホームページで曲をダウンロードできるようです。

倍賞さんは、北海道について「困ったことがあると北海道の人は親兄弟のように心配してくれる。夏の夜に大地に寝そべり流れ星を数えたこともあるし、冬の雪も大好きです」と北海道愛を語っていました。

けん

倍賞さんの病気は乳がんだけ?

のぞみ

乳がんの後に脳動脈瘤の手術も受けていたみたい。
どちらも早期発見で大事には至ってないよ。
現在は病気を克服していて健康な状態だよ。このまま身体を大事にしてほしいね。

倍賞千恵子のプロフィール・SNS

  • 名前:倍賞千恵子(ばいしょうちえこ)
  • 生年月日:1941年6月29日
  • 年齢:84歳(2025年9月現在)
  • 出身地:東京都
  • 血液型:B型
  • 特技:歌・踊り
  • 所属事務所:チエコ・オフィス
倍賞千恵子さん
引用元:スポニチ

SNS

倍賞千恵子さん
けん

倍賞さんはやっぱりお歌が好きなんだね。

のぞみ

インタビューを受けている時でも歌っちゃうくらい大好きみたいだよ。
びっくりするのが、乳がんで手術を受ける時にひとりの先生が「倍賞さんの歌が好きでね」と言われて「歌いましょうか」と「下町の太陽」を手術台の上で歌ったことがあるんだって!
脳動脈瘤のときは自ら「もしよかったら歌います」といって「ICU」という曲を歌ったみたいだよ。

倍賞千恵子の夫・馴れ初めと現在の活動、若い頃まとめ

  • 夫は作曲家・編曲家の小六禮次郎である
  • 出会いは1985年のリサイタル打ち合わせで最初の印象は最悪だったとされている
  • 舞台やコンサートでの共演を重ね相性の良さを実感し関係が深まっていった
  • 1986年頃に交際を開始し約7年の交際を経て1993年に結婚している
  • 二人の間に子どもはいないとされ再婚時の年齢も背景にあるとの見方がある(噂)
  • 現在はコンサートやトークショーを中心に女優としても活動を続けている
  • 2023年にイタリアの映画祭で生涯功労賞を受賞している
  • Netflix配信の「PLAN 75」で9年ぶりの主演とされ第75回カンヌ国際映画祭に出品されている
  • 視聴者からは自然体の年の重ね方や女優としての存在感が高く評価されている
  • 10代で童謡「ひばりの赤ちゃん」でデビューし松竹音楽舞踊学校を首席卒業している
  • SKD入団後は初代バトンガールを務め1961年に映画「斑女」で映画デビューしている
  • 1962年に「下町の太陽」で歌手デビューし翌年に映画化や新人賞受賞・紅白出場を果たしている
  • 1969年に「男はつらいよ」でさくら役を務めシリーズの人気を不動のものにしている
  • 1976年に俳優・小宮健吾と結婚するも1980年に離婚しており破局理由は公表されていない
  • 2001年に乳がんで温存手術と放射線治療を受け後年に脳動脈瘤の手術も受けている
  • 1992年に北海道別海町に別荘を建て2013年に夫と共に同町観光大使となっている
  • 歌と芝居の二刀流で長く第一線を維持しており今後も熟練の存在感で作品を支えることが期待される
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