【画像】草間彌生と加納典明との関係は?作品は統合失調症から生まれた?若い頃美人!

草間彌生さんと加納典明さんは1969年のニューヨークで出会い、草間さんの“オージーパーティ(ボディペインティング・ハプニング)”を加納さんが撮影することで、写真と前衛アートが交差する象徴的なコラボが生まれました。2人は私的な関係ではなく、互いの創造性を触発し合う「作品の共同当事者」。

そして草間さんの代名詞である水玉や「無限の網」は、幼少期から続く幻覚・強迫的体験を“生の術”として可視化した表現で、苦痛を創作へ反転させた結果です。

本記事では、その出会いの背景と影響、モチーフ誕生の内的プロセス、さらに若い頃の端正でエキゾチックな魅力が世界的評価へ繋がっていく道筋を、画像・証言とともにやさしく解説します。

この記事でわかること

  • 草間彌生×加納典明が生んだ“1969年NYハプニング”の実像と意義
  • 水玉・無限の網が幻覚体験を源泉に成立した創作プロセス
  • 若い頃の写真から読み解くルックスとセルフブランディング
  • NY時代の仲間・潮流が草間アートに与えた影響
  • 帰国後の評価変遷と現在までの到達点の要約
目次

【画像】草間彌生と加納典明の関係は?作品は統合失調症から生まれた?

1969年NYで出会った草間彌生さんと写真家・加納典明さんは、草間さんのボディペインティング=“オージー・パーティー”を加納さんが撮影することで、前衛美術と写真が交差する象徴的コラボを生みました。私的関係ではなく、互いの創造性を刺激し合う表現上のパートナーです。

草間さんの水玉や「無限の網」は、幼少期からの幻覚・強迫体験を制作へ転化した“生き延びるための技法”。本項では出会いの背景、作品化のプロセス、若き日の素顔、当時のNYアートシーンの空気まで簡潔に解説します。

草間彌生と加納典明の関係は?

引用元:X
引用元:XX

草間彌生さんと写真家の加納典明さんは、1969年にニューヨークで出会いました。当時、加納さん一行は色々なところでのゲリラ撮影を行なっていたそうです。

編集者の紹介で知り合った草間さんは、この時すでに前衛芸術家として名前を馳せており、会話の中で「典明さんの為にパフォーマンスをしてあげます」と言われ、スタジオで撮影をすることになったそうです。

流石の私も驚いた。 白人黒人の男女が入り乱れ、言えば乱交パーティを展開している。草間さんはその人たちの間を縫って裸体に水玉を描いている。一瞬、一体全体これは何だ、との思いに駆られながら、撮るっきゃないとカメラ3台をフル回転させた。

加納典明さんは、撮影時の衝撃をこのようにお話しされています。オージーパーティと呼ばれ、草間さんのパフォーマンスアートの一環として行われていたものでした。

加納さんは「草間彌生さんに会わなかったら生まれなかった作品だ」と新たなインスピレーションをもたらされたそうです。このイベントには、他のアーティストやパフォーマーも参加しており、その過激な内容が当時のエロティシズムの新しい表現として評価されました。

この出会いで草間彌生さんと加納典明さんは、アートと写真の境界を超えた1つの作品を生み出しました。

ギモンくん

2枚目のXの写真は、1969年にNYに行った時の加納典明さんだね!

カイケツさん

草間彌生さんとオノ・ヨーコさんも同じ時期に活躍しているアーティストだよね。草間彌生さんは1969年には自身のブティックも開店して、クサマ・ドレステキスタイルも手掛けているわ。

草間彌生の作品は統合失調症から生まれた?

オブリタレーションルーム
引用元:パビリオントウキョウ2021
引用元:XX

草間彌生さんは、10歳の頃から統合失調症強迫神経症を患っていました。視界が水玉や網目模様で埋め尽くされる幻覚や、植物が話しかけてくる幻聴を体験していたそうです。

この精神的な苦痛や恐怖から逃れるために、絵を描くことに没頭し始めました。

症状が現れた10歳の頃から繰り返し水玉模様を描き、身を守る為の儀式として作品を水玉で埋め尽くしたのだそうです。心の苦しさを、描くことで紛らわせていたのでしょう。

草間さんの作品でも「水玉模様」「無限の網」「かぼちゃ」が有名で、水玉模様はトレードマークとなっています。中でも「カボチャ」は種苗業を営んでいた実家から、モチーフとして採用されたものだそうです。

水玉模様は草間さんの視界に常に存在し、感覚や思考の一部となっているそうです。ご本人も「絵を描くことで生き延びた」と語られており、「水玉模様は私を救う存在」ともお話しされています。

ギモンくん

草間さんの母親は財産家の跡取り娘で、婿入りした父親は自分自身が素封家の出身であるというプライドと、婿養子という立場の狭間で「女遊び」を繰り返す人だったそうだね。

カイケツさん

草間さんはその喧嘩する両親の姿を見たり、母親から父の後を尾行するように命じられたり、ヒステリーを起こす母親からの愛情を感じられずに幼少期を過ごしたんですって。そんな家庭環境の中で小児喘息にかかり、離人症を発症して統合失調症の症状があらわれてしまったそうよ。

【画像】草間彌生は若い頃美人!

草間彌生さんは長野・松本の種苗商の家に生まれ、幼少期から草花を描きつつ幻視体験を作品へと昇華。戦時下の10代に16歳で全信州美術展入選、京都で日本画を学ぶ。

書店で知ったジョージア・オキーフさんへ自作を送り励ましを得たことが渡米の転機となり、1957年に単身渡米。「無限の網」で注目を集めます。

端正でエキゾチックな若き日の佇まいは写真にも鮮烈に残り、のちの水玉やソフト・スカルプチュアへ続く独自の美意識を形づくりました。

幼少期・10代(1929年〜1949年)

草間彌生さん
引用元:家庭画報
草間彌生さん
引用元:家庭画報

草間彌生さんは、1929年に長野県松本市で松本駅近くの種苗業を営む裕福な家庭に生まれました。 400年も続く旧家で、姉と2人の兄がいる4人兄妹の末っ子でした。

上の画像は彌生さんが生まれたばかりの頃と5歳の頃の写真です。名家と言われる家柄で皆さんとても品があり、厳格そうな家族写真ですね。

草間彌生さん
引用元:The New York Times Style Magazine 公式サイト

草間彌生さんは幼い頃から草花のスケッチを好んでいましたが、同時に幻覚や幻聴に悩まされ、それを視覚化して絵にし始めました。「恐怖から逃れるため、自殺への憧れを頭から追いやるため」必死で絵を描いたとお話しされています。

モチーフとして水玉模様がトレードマークになっていますが、10歳の頃からすでに水玉と網目模様をモチーフとして描いていたようです。上の画像はその当時のものです。大きな花束を抱えた肖像写真ですが、この頃は第2次世界大戦に突入する頃で、表情が固く、不安げにも見えてしまいます。

1945年(当時16歳)の時には、戦争中に疎開してきた画家たちが立ち上げた『第一回全信州美術展覧会』で並み居る芸術家たちが参加する中、16歳で入選を果たしました。

また、1948年(当時19歳)には松本高等女学校(現:長野県松本蟻ヶ崎高等学校)を卒業後、京都市立美術工芸学校(現:京都市立美術工芸高等学校)の4年生に編入して日本画を学びます。

その後1年で卒業し、様々な絵画技法を習得しましたが、伝統的な日本画壇が草間さんの作品を理解しないことに失望して、松本の実家に戻ってからは、寝食を忘れ毎日何枚も絵を描き続けたそうです。

ギモンくん

草間さんは10代で戦争を経験されているんだよね。

カイケツさん

13歳の頃にはパラシュート工場で働かされたそうよ。
爆撃におびえながら、真っ暗で閉ざされた空間に息をひそめることを強いられた時代を過ごされていたのね。その時代の影響もあって、さらに絵を描くことに没頭していったそうよ。

20代(1949年〜1959年)

草間彌生さん
引用元:草間彌生HP
引用元:Instagram

1952年(当時23歳)の時、松本市公民館(旧:松本市公会堂)で初めての個展を開きました。その際、有名な精神科医の西丸四方先生の目に留まり絵を購入され、関東精神神経医学学会で紹介されることになりました。

上の画像はどちらもその個展時のものです。1枚目はモノクロ写真でわかりづらいかもしれませんが、草間さんがデザインした赤と白のセーターを着ています。この配色は以降も多数の作品に見られるカラーになりました。

2度目の個展でも色々な縁を繋ぎ、当時著名だった美術評論家の瀧口修造さんなどと知り合うことになります。西丸先生と瀧口さんは、その後草間彌生さんの生涯にわたるよき理解者となったそうです。

1954年(当時25歳)から翌年にかけては、地元での個展で縁を得た東京の百貨店や画廊で4度の個展を開きます。

その頃、書店で目にしたアメリカの女性画家ジョージア・オキーフさん画集に魅せられた草間さんは、英文で手紙を書き、自分の作品数枚と共にオキーフさん宛てに送ったそうです。

その後「アメリカでやってみたら」という返信に、草間彌生さんは決意を固め、単身アメリカへ向かいます。

引用元:X

絵を描いて生きていくという固い決意を胸に、単身渡米したのは1957年(当時28歳)でした。自由に海外旅行ができない時代に、シアトルでアメリカ初の個展を行い、翌年ニューヨークに拠点を構えることになりました。

草間彌生さんは、売れない、食べられない日々が続き寝食も忘れて絵を描き続け、ついに倒れて病院に担ぎ込まれたこともあったそうです。

明日のパンも買えないほどの苦しい生活を送りながら草間さんが描いていたのは、画面をびっしりと覆い尽くす網目でした。全長10mに及ぶ巨大な白い網目絵画『無限の網』(インフィニティ・ネット)を発表すると、ネットペインティングと呼ばれ、それまで見たことのない前衛的な表現と絶賛されることになりました。

上の画像は1958年のものです。細かい点描や網目模様1つ1つに、魂が込められているような気がしますよね。

ギモンくん

この時代に、病気を持ちながらも単身渡米するのはとても勇気がいることだよね?

カイケツさん

そもそも草間さんは、画家になることを母親からとても反対されていたんですって。草間さんが絵を描いていると机をひっくり返したり絵を破り捨てたりされて、かかりつけの精神科医から、「家にいたらあなたはもっとノイローゼになるから、少しでも早くお母さんから離れなさい」と勧められていたそうよ!日本脱出を考えた結果、絵描きになれる場所とニューヨークを選んだみたい。

30代(1959年〜1969年)

ネットペインティングで注目を集めた草間さんは、ニューヨークでの活動の基盤を固めました。

ニューヨークで自由な環境を与えられ、才能を開花させてからは、巨大な平面作品や、ソフト・スカルプチュア(白い布製の突起物をソファやテーブルに付着させた彫刻)、鏡や電飾を使った環境彫刻など次々に作品を発表していきました。

草間彌生さん
引用元:VOGUE JAPAN

1960年代は白人男性が主流だったアメリカのアート界で、日本人であり女性である草間さんは、誰も見たことのない、オリジナリティあふれる芸術として高く評価されていきました。

この頃の若いアーティスト仲間にはアンディ・ウォーホルさんクレス・オルデンバーグさんといった、のちのポップアートのスターとなる人達がいたそうです。

上の画像は1966年(当時37歳)の時のものです。エキゾチックで魅力的な顔立ちをされている草間さんは、多くの男性から目を引かれる存在だったようです。

草間彌生さん
引用元:The New York Times Style Magazine 公式サイト

1960年代後半からの草間彌生さんは、さらに過激な活動を展開していきました。

自然に帰ろう、人間性を取り戻そうというヒッピー・ムーブメントや、ベトナム反戦運動の高まりや資本主義経済への批判などを背景に裸に水玉のボディ・ペインティングを施したり、草間デザインのファッションに身を包んだモデルたちによるデモファッションショーが室内や街頭で大量に繰り広げられることとなりました。

これらの作品は『クサマハプニング』と呼ばれ、ニューヨークのアート界でかなりの注目を集めました。

空間全体を埋めつくす『インスタレーション』や公共空間で行われた『ハプニング』で人々を驚かせ、その活動はニューヨークに留まらず世界中に広がっていきました。

インスタレーションとは、絵画や彫刻などと並ぶジャンルの1つで、特定の室内や屋外などにオブジェや装置を置いて、空間を構成し変化させて、場所や空間全体を作品として体験させる芸術です。

上の写真は1968年頃(当時39歳)のものです。のちに草間さんは、この頃の行動について「ヒッピーの若者たちを裸にして、自分が先頭に立って警察官から逃げ回った」と得意げに話されていたそうです。

ギモンくん

草間さんが渡米を決意した頃には、こんなに自分を解放して自由に表現できると思っていなかったんじゃないかな?

カイケツさん

でも、ニューヨークで制作を開始するときにエンパイア・ステートビルに上って、マンハッタンを見下ろし「いつかこの街を征服する」と誓っていたそうよ。成功する未来を見据えていたんじゃないかしら。

40代以上(1969年〜)

草間彌生さん、ジョゼフ・コーネルさん
引用元:VOGUE JAPAN

草間彌生さんには、ジョゼフ・コーネルさんという芸術家のパートナーがいました。

草間さんより26歳年上で、2人ともコンプレックスと恐怖症を持っており、お互いのヌード画を描いたりもしましたが、プラトニックな関係でした。

上の画像は1970年(当時40歳)のものです。お2人とも幸せそうな笑顔でとても素敵な1枚ですよね。

「コーネルさんは毎日、手紙を書いてよこしました。私のことをとても愛してくれた。あの頃、咲いた愛の花は、もう花びらを落として、私はそれを捨て去ってしまいました。今、考えると、私の芸術とは、人間を愛すること、世界を愛すること、芸術を愛すること、すべてのものに対する愛の結晶と、死への道程の間に、あったのです」

引用元:VOGUE JAPAN

そして1972年(当時42歳)最愛のコーネルさんが逝去された後、草間さんは心身ともに体調を崩し、日本へ帰国し精神科病院へ入院することになりました。

以降東京を活動拠点とし、入院中には自身の幻視体験を元に詩や小説の執筆を始めます。1978年(当時49歳)に処女小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』、1983年(当時54歳)に『クリストファー男娼窟』を発表し、この作品で第10回野性時代新人文学賞を受賞しました。

ニューヨークでは『前衛の女王』と呼ばれていた草間さんも、帰国後はその活動をスキャンダラスに報道されたことでバッシングにあい、日本ではあまり評価されませんでした

クサマというおかしな日本人女性の変なアート」「セックスを主題にしたりする、破廉恥な女」というイメージをもたれ、草間さんにとって帰国後は1からの再出発になってしまいます。

しかし、世界からは変わらず高く評価され、1989年(当時60歳)にニューヨークで回顧展が開催されました。それをきっかけに、ようやく世間に草間さんの作品が認められることになりました。

2014年(当時85歳)、イギリスで「世界で最も人気のあるアーティスト」に、2016年(当時87歳)には『タイム』誌の「世界で最も影響力のある100人」で唯一の日本人となりました。

上の動画は2019年(当時90歳)に上映された映画『草間彌生∞INFINITY』の予告動画です。帰国から2年後、アートセラピーを大切にする精神科病院に入院し、以降50年近くに渡り現在も病室から自身のアトリエに出勤する生活を続けているそうです。

「人生は素晴らしい。自分の芸術の力を信じて何十年も闘ってきました。自分の生命の在りどころを芸術の求道に置いて、人間の素晴らしさや生きていくことへの深い憧れが、ようやく出てきたの。長らく積み上げた芸術のおかげで、今こそ私の人生は始まると感じています。死にものぐるいで芸術をやっているの。そうして、自分の生きてきた道程と、天国へ上る階段の道筋に、たくさんの愛情が含まれていると感じて、安らかな心で自分の死を迎えたいと希望しています。今まで生きてきてよかった。私の作品を見た人が、ものすごく感激して、抱きしめてくれるの。涙をこぼして。毎日、多くの人たちが待ってくれている。描かなくちゃいけないから、今いちばん欲しいものは時間なの」

引用元:VOGUE JAPAN
ギモンくん

草間彌生さんの作品は、現在高値で取引されているんだよね。

カイケツさん

2005年(当時76歳)のクリスティーズニューヨーク(美術品オークションハウス)では1962年制作の油彩が約1億2千万円で落札されて、2006年(当時77歳)には1959年の油彩作品が1億円を超える価格で落札されたの。草間さんの作品は、存命の女性アーティストで最も高額で取り引きされているんですって。

草間彌生のプロフィール・受賞歴

草間彌生さん
引用元:GQ

プロフィール

  • 名前:草間彌生(くさまやよい)
  • 生年月日:1929年3月22日
  • 年齢:96歳(2025年10月現在)
  • 出身地:長野県
  • 血液型:不明
  • 学歴:京都市立美術工芸学校卒業(現・京都市立銅駝美術工芸高等学校)京都市立美術工芸学校絵画科卒業(現・京都市立芸術大学)
  • 影響を受けた芸術家:ジョージア・オキーフ
  • 所属ギャラリー:オオタファインアーツ

受賞

  • 1995年1996年:国際美術評論家連盟ベストギャラリー賞
  • 2000年: 第50回芸術選奨文部大臣賞
  • 2000年: 外務大臣表彰
  • 2001年: 朝日賞
  • 2002年: 紺綬褒章
  • 2003年: フランス芸術文化勲章オフィシエ
  • 2003年: 長野県知事表彰(芸術文化功労)
  • 2006年: 旭日小綬章
  • 2006年: ライフタイムアチーブメント賞
  • 2006年: 高松宮殿下記念世界文化賞絵画部門
  • 2009年: 文化功労者
  • 2016年: 文化勲章
ギモンくん

2023年ルイ・ヴィトンが草間彌生さんとのコラボ10年を記念したコレクションを発表して、そのウィンドウ・ディスプレイがすごかったんだよね!

引用元:X
カイケツさん

草間さんのヒューマノイドロボットが登場したのよね!
筆を持ったロボットがドットを描いていく仕草をするのだけど、表情豊かで動きも滑らかでびっくりしちゃった!

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