三國連太郎さんと石田えりさんの「交際説」は裏付け不十分な噂で、確かな証拠は見当たりません。
噂の背景には、映画『釣りバカ日誌』シリーズでの息の合った共演と、石田さんが第7作(1994年)を最後に降板した経緯が重なったことがあるとみられます。
一方、三國さんの息子は俳優・佐藤浩市さんで、幼少期は距離があったものの、のちにドラマ『美味しんぼ』(1996年)で初共演し、互いを俳優としてリスペクトし合う関係が語られています。
さらに、若い頃の三國さんは“正統派イケメン”として注目され、役作りのために歯を抜くほど徹底したストイックさで日本映画史に鮮烈な足跡を残しました。デビュー作『善魔』から『飢餓海峡』『釣りバカ日誌』まで、重厚な演技と存在感で観客を魅了し続け、最期まで俳優として生き切ったことが本記事からわかります。
この記事でわかること
- 三國連太郎×石田えり「交際説」の位置づけ(信頼できる裏付けの有無)
- 『釣りバカ日誌』での共演と、石田えり降板に関する諸説の整理
- 息子・佐藤浩市との関係と、親子初共演『美味しんぼ』(1996年)のトピック
- 若い頃の“イケメン”ぶりと、歯を抜くなど徹底した役作りエピソード
- 代表作・受賞歴を通じて見える三國連太郎の俳優としての到達点
【画像】三國連太郎は石田えりと付き合ってた?息子との関係は?
三國連太郎さんと女優の石田えりさんは付き合っていたという噂があります。
リサーチしたものの、交際の事実を示す情報を確認することはできませんでした。意気のあった共演が、もしかしたら周囲からのやっかみも混じり、そのような噂になった可能性がありますね。いずれにせよ、事実関係は不明です。
引用元:X🎣今夜6時30分
— BSテレ東【明日は何の日?】BS7ch (@BS7ch_PR) May 7, 2021
土曜だ!釣りバカ『#釣りバカ日誌4』#鯉太郎 くん誕生!ハマちゃんパパに👶
浜崎家に待望の第一子誕生!
立ち会ったのは…スーさん???
釣りは #和歌山県由良町 で #イカダ釣り🎣#西田敏行 #石田えり #三國連太郎
©1991松竹株式会社 pic.twitter.com/2Tg3DlziOR
三國連太郎さんと石田えりさんは、大人気映画「釣りバカ日誌」シリーズで共演します。上の画像1つ目は、お2人が映画「釣りバカ日誌4」で共演された時のものです。三國連太郎さんが石田えりさんの手をとるシーンもあるんですね!石田えりさん、かわいくてどこか色気もあって魅力的ですね!
引用元:映画.com
出会った時、三國連太郎さんは65歳で石田えりさんは28歳でした。「釣りバカ日誌」は大ヒットし全22作が公開されますが、石田えりさんは1994年放送の7作目を最後に出演を降板されます。このことがお2人が付き合っていると噂になった理由と上れているようです。
「釣りバカ日誌」で石田えりさんは、西田敏行さんの奥さん役で出演されています。そのため三國連太郎さんと交際しているから演技に支障が出てしまったり、現場にも影響があることを考慮して降板したのではないかと噂されました。
しかし、お2人の交際を裏付ける情報を見つけることができませんでした。調べてみると、石田えりさんの降板理由はいくつか噂があるようです。
降板理由として挙げられていたのは、三國連太郎さんが石田えりさんに惹かれ不適切なアプローチをしたことで石田えりさんは自ら降板を申し出た、三國連太郎さんから誘いを断った石田えりさんを三國連太郎さんは周りを使って圧力をかけ降板に追い込んだなどがありました。
また「釣りバカ日誌」のイメージが定着した石田えりさんが仕事の幅を広げる為に降板を決意したというものもありました。
上の画像2つ目は、2007年石田えりさん47歳で出演した映画「サッド ヴァケイション」のトークショーに登場した時のものです。とても生き生きした素敵の笑顔ですね!仕事の幅を広げる為というのも大いにあり得ますね!
どの噂にも根拠となる情報がなくあくまで噂であり、繰り返しにはなりますが、三國連太郎さんと石田えりさんの交際についても詳しいことは不明です。
けん三國連太郎さんは、イケメンで実力もあるからモテモテだろうね!女性関係の問題はなかったのかな?
のぞみ三國連太郎さんは、1962年(当時39歳)の時に結婚しているにも関わらず女優の太地喜和子さん(当時19歳)との不倫が話題になったよ!
三國連太郎と息子の関係は?
引用元:X昭和36年 平凡5月号『スターのジュニア告知版・赤ちゃん誕生』より/昭和35年12月に、三国連太郎さんと敏子夫人に可愛い赤ちゃんが誕生しました。名前は浩市ちゃん。「父親になると責任を感じちゃうな」といいながらも三国さんは喜びいっぱいのご様子です。 pic.twitter.com/uGj6abbmE8
— 島倉千代菊 (@wataridori333) July 24, 2019
引用元:婦人公論
三國連太郎さんの息子さんは、誰もが知る大物俳優・佐藤浩市さんです。三國連太郎さんには4度の結婚歴があり1957年(当時34歳)の時に3度目の結婚をし、そのお相手との間に息子の佐藤浩市さんが誕生します。
上の画像1枚目は、佐藤浩市さんの誕生を祝う家族写真が週刊誌に載った時のものです。幸せいっぱいの写真ですね!三國連太郎さんの父親の顔も素敵ですね!
三國連太郎さんの息子である佐藤浩市さんは、幼い頃は俳優になるつもりはなかったそうです。しかし、父は名俳優の三國連太郎さん、その血を引いているためぜひ俳優にという声がかかり、お芝居の経験もないままオーディションに合格し俳優になります。その後どんどん頭角を表し佐藤浩市さんも父に劣らない名俳優となりました。
三國連太郎さんは、子供が苦手なタイプだったそうで佐藤浩市さんは幼い頃遊んでもらった記憶が一切ないとのことです。しかし、小学3年か4年の時に運動会に来てくれたことがあり学校中大騒ぎになったというエピソードもありました。
佐藤浩市さんは、三國連太郎さんに対して「彼は僕に何かを教えようとしたことは全然なかったから、勝手に見て勝手に解釈しただけ。」「三國連太郎は僕の中にいろんなものを植えつけて行ったんですね。」と話されていました。
直接的な関わりは少なくとも、三國連太郎さんは父として背中で息子の佐藤浩市さんに語ってきたのかもしれませんね!お2人は1996年放送のドラマ「美味しんぼ」で初共演を果たしました。上の画像2枚目はその時のものです。素敵な笑顔のお2人ですね!親子でかっこよく大物オーラ全開です!
三國連太郎さんが亡くなったとき、佐藤浩市さんは「三國は、もう1度現場に立ちたいとどれだけ思っていただろう」「そう考えると『お前、今日のことを思い出してみろ。そうしたら雑な芝居も不遜な芝居もできないだろう』と最後にまた三國に教えられた気がします。」と話しました。
心に強い繋がりを持った親子であることがわかりますね!
けん三國連太郎さんの息子である佐藤浩市さんは、幼い頃は俳優になりたくなかったんだね!何か理由はあるのかな?
のぞみ昔、近所のおばさんに「浩ちゃん(佐藤浩市さん)はいいわよね、役者さんになればいいんだから」と言われて「絶対なるもんか」と思ったそうだよ!
【画像】三國連太郎は若い頃イケメン!
戦中の体験を経て1951年『善魔』で俳優デビューした三國連太郎は、端正な目元と高い鼻梁、静かな色気でスクリーンを射抜く“正統派イケメン”として君臨します。
1952年『本日休診』では戦争の記憶を宿すまなざしで観客を惹きつけ、翌年以降も『ビルマの竪琴』『異母兄弟』などで存在感を拡大。役づくりのため歯を抜くほどのストイックさも相まって、若き日の美貌は“迫力ある美しさ”へと昇華し、ただ綺麗なだけではない「強さを帯びたイケメン像」を確立しました。
20代(1943年~1953年)
三國連太郎さんは、1943年(当時20歳)の時に赤紙が届き軍に入りたくないと逃亡を図ります。しかし、憲兵に連れ戻され歩兵第34連隊に入りました。第二次世界大戦後は、中国の収容所に入れられてしまいますが1946年(当時23歳)の時に偽装結婚をし日本に帰国されます。
その後、偽装結婚を解消し農協に務めます。しかし、1950年(当時27歳)の時に闇商売を始め挫折を経験しました。同年、スカウトを受け1951年(当時28歳)の時に映画「善魔」で俳優デビューを果たします。見事な演技を見せ、第2回ブルーリボン新人賞を受賞されました。
引用元:松竹
上の画像は、1951年三國連太郎さん28歳の時に俳優デビューを果たした映画「善魔」のワンシーンです。誠実さと優しさを感じる目に高い鼻が魅力的ですね!かっこいいです!
引用元:X「本日休診(1952)」見た。
— そういち 🫐🌿💉💝 (@flora17478203) March 20, 2024
コミカルでほっこりする日常系。
ラストの三國連太郎の表情がすごく印象的。
余韻の残るなかなか良い映画だった😊 pic.twitter.com/wWfW4Hi4hK
三國連太郎さんは、1952年(当時29歳)の時に松竹の映画「本日休診」に出演され、永い軍隊生活によって悪夢を見続け苦しんでいる男性の役を見事に演じました。
上の画像は、1952年三國連太郎さん29歳の時に出演した映画「本日休診」のワンシーンです。実際に戦争で歩兵を経験した三國連太郎だからこそできる表情にグッと来ますね。
同年、松竹と東宝の間で三國連太郎さん争奪戦が起こります。この年に公開された東宝の映画「戦国無頼」のクランクインに三國連太郎さん自ら参加したことが決め手となり、松竹は三國連太郎さんを正式に解雇しました。
その後、三國連太郎さんは東宝と年間4本の出演契約を結ぶことになります。
けん三國連太郎さんは、直接言わないにしても行動で東宝を選んだことになるね。このことは世間ではどう受け止められているのかな?
のぞみこのことで、世間ではギリ人情を欠く「アプレ・スター」と炎上したこともあったそうだよ。
30代(1953年~1963年)
三國連太郎さんは、1956年(当時33歳)の時に小説を原作とした映画「ビルマの竪琴」に出演し、隊長役を務めました。この映画は、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞を受賞し、アカデミー外国語映画賞にノミネートされるほど話題作となりました。
引用元:X1956年 まだ戦後10余年、戦時中の記憶が鮮烈に残る中、三國連太郎氏はビルマの竪琴で役を演じたという。
— コバさん@模型を作るフレンズ (@Kudryavka501) April 23, 2018
復員船でのシーンでは自身の体験と重なり、涙を流す姿は役者ではなく、まさに本物の復員兵であった。
あの時代、あの戦争を体験した人だからこそ、あの映画が出来たのだろう。 pic.twitter.com/Ttl1qPztHo
上の画像は、1956年三國連太郎さん33歳で映画「ビルマの竪琴」に出演した時のものです。イケメンで隊長の風格を感じられる表情がかっこいいですね!
同年に、三國連太郎さんはNHKドラマ「どたんば」に出演しテレビドラマデビューを果たします。当時は、生放送のドラマが多く「どたんば」も生放送でした。一発勝負の失敗は許されない緊張感漂う撮影でしたが、三國連太郎さんは見事な演技を見せました。
引用元:X異母兄弟 #1日1本オススメ映画 現実には徴兵拒否した三國連太郎が帝国軍人の傲慢と独善、人間性の歪みと差別意識の醜さ、老残と落魄をとことんまで演じ切る。それが単純な憎まれ役でなくだんだんどこかで見たような人間に見えてくるところまで降りてくる凄さ。 pic.twitter.com/U3CJr8MsNR
— 小暮 宏 (@yapoono6) March 31, 2017
三國連太郎さんは、1957年(当時34歳)の時に映画「異母兄弟」に出演し、老人の役も見事に演じきりました。老人役を演じるにあたり、三國連太郎さんは、上下の歯を10本抜きました。治りを早くするために麻酔なしで抜歯をしたそうです。
この衝撃的な役作りに、三國連太郎さんは、怪優や奇人とも呼ばれるようになりました。抜歯について三國連太郎さんは「夫婦役の田中絹代とどう見ても夫婦に見えないことに悩んだ末のことだ」と語られています。
上の画像は、1957年三國連太郎さん34歳で映画「異母兄弟」に出演した時のものです。ここまでの役作りをして、才能も実力もある俳優ですから画像だけでも演技力の高さが感じられて引き込まれますね!
引用元:ひかりTV
三國連太郎さんは、1960年(当時37歳)の時に映画「大いなる旅路」で主演を飾りブルーリボン賞主演男優賞を受賞されました。
上の画像は、1960年三国連太郎さん37歳で主演を務めた映画「大いなる旅路」のワンシーンです。険しい表情もかっこよくて素敵ですね!
三國連太郎さんは、同年に3度目の結婚をしお相手との間に男の子を授かりました。そして、1961年(当時38歳)の時に映画「はだかっ子」と「飼育」に出演し、毎日映画コンクール男優助演賞を受賞されます。
けん三國連太郎さんは、歯を10本も抜いてしまってその後どうしたのかな?
のぞみ総入れ歯にしたという情報があったよ!
40代(1963年~1973年)
三國連太郎さんは、1963年(当時40歳)の時に映画会社「日本プロ」を設立しました。初の作品として「台風」の企画と監督を務めますが東映がその活動に反対し公開中止となります。
1965年(当時42歳)の時には、映画「飢餓海峡」と「にっぽん泥棒物語」で主演を務め日本映画批評家大賞のホワイトブロンズ賞主演男優賞、キネマ旬報賞男優賞、毎日映画コンクール男優主演賞を受賞されました。
引用元:X『飢餓海峡』5/19〜
— 元町映画館 (@moto_ei) May 13, 2018
巨匠、内田吐夢監督作品。
若かりし頃の三國連太郎や高倉健の存在感が圧倒的すぎる、日本映画の傑作。水上勉の同盟小説で何度も舞台化やドラマ化された本作。いくつもの登場人物のドラマが重なりあい怒涛のラストへ流れ込む。スクリーンで観ることが難しい本作をぜひ劇場で!(ひ) pic.twitter.com/dhgLyaugx6
上の画像は、1965年三國連太郎さん42歳の時に出演した映画「飢餓海峡」のワンシーンです。髭姿も素敵ですね!存在感が桁違いです!
引用元:Amazon
三國連太郎さんは、1970年(当時47歳)の時に映画「野獣都市」で俳優の黒澤年男さんと主演を飾りました。上の画像は、その時のものです。タバコを持つ姿もかっこいいですね!絵になりますね!
1972年(当時49歳)の時に三國連太郎さんは、映画「岸のない河」の製作と監督さらに主演を務めます。しかし、この作品は未完成の状態です。
「岸のない河」の撮影のため、三國連太郎さんはアフガニスタンに出国しますがビザの発行が遅れ搭乗予定だった便に乗ることができませんでした。しかし、搭乗予定だった便は墜落事故を起こし三國連太郎さんは命拾いしました。
けん飛行機の件は奇跡だね!三國連太郎さんは他にも奇跡的な体験とかはあったのかな?
のぞみ1968年(当時45歳)の時に、映画「神々の深き欲望」の長期撮影で南大東島に行ったときに破傷風にかかって危うく脚一本を失うところだったそうだよ!完治してよかったね!
50代(1973年~1983年)
三國連太郎さんは、1974年(当時51歳)の時に映画「襤褸の旗」に出演し政治家の田中正造さんの役を務めました。この作品でも見事な演技を見せ、第29回毎日映画コンクール男優主演賞を受賞されます。
引用元:X今日は田中正造の命日
— kiku(土偏) (@klk_tak) September 3, 2021
吉村公三郎監督『襤褸の旗』(1974)を観る
三國連太郎は日本で一番かっこいいんじゃないか。 pic.twitter.com/6fMtdPvZ1z
映画「襤褸の旗」で三國連太郎さんが土を食べるシーンが話題となり、このシーンは三國連太郎さんのアドリブで撮影されたそうです。この時に共演した西田敏行さんが三國連太郎さんの寝相が気になって部屋を覗いたところ「ドラキュラみたいな感じで寝てて。」と話されていました。
上の画像は、1974年三國連太郎さん51歳の時に出演した映画「襤褸の旗」のワンシーンです。今までの三國連太郎さんとはガラッと雰囲気が変わりましたね!役に入るというより田中正造さんが乗り移っているようですね!
引用元:Amazon
三國連太郎さんは、1976年(当時53歳)の時に人気漫画の実写映画「はだしのゲン」にゲンの父親・大吉役で出演し話題となります。
1982年(当時59歳)の時には、日中国交正常化の10周年を記念して製作された戦後初の日中合同作映画「未完の対局」で主演の日本トップ棋士役を務めます。この時も三國連太郎さんの見せた迫真の演技は世間を驚かせました。
当時、日中の関係が複雑でかなり難易度の高い企画に撮影となりましたが、制約や文化の違いを受け入れ両国が協力して作品を作り上げたそうです。
上の画像は、1982年三國連太郎さん59歳の時に主演を務めた映画「未完の対局」のポスターヴィジュアルです。男らしさが感じられていくつになってもかっこいいですね!
けん三國連太郎さんは、取り憑かれたような見事な演技ばかりだよね!役に入り込んでしまうことはなかったのかな?
のぞみ役に入り込んでしまうことも度々あったそうだよ!粗暴な人の役を務めた時は、他人が近づきずらい雰囲気が出てしまっていたんだって!
60代(1983年〜1993年)
三國連太郎さんは、1986年(当時63歳)の時に映画「人間の約束」に出演し60代でありながら80代役を見事に演じ切りました。
引用元:Xシネマヴェーラ渋谷 吉田喜重特集にて
— Ryo Chiura (@r_chiura) June 20, 2023
『人間の約束』(86)
35mm film上映 美麗プリント。やや褪色が始まった風味も作品に見合った黄昏を感じさせ。
老いをアピる三國連太郎と村瀬幸子の役者根性、迫力がすごい。静謐と微かな動きの雄弁。圧倒的。
老い、ボケ、介護。主題をド直球でぶつけられる。 pic.twitter.com/p5J3yeOwDw
上の画像は、1986年三國連太郎さん63歳で映画「人間の約束」に出演した時のものです。本当に老人に見えますね!役としてはおじいちゃんですが美形なのは変わりないですね!
1987年(当時64歳)の時には、三國連太郎さん原作の小説「白い道」を映画化した「親鸞 白い道」が公開されました。この映画で三國連太郎さんは、原作に企画、脚本、監督、出演を務めます。DVD化もされる話題作となりました。
引用元:Amazon
三國連太郎さんは、1988年(当時65歳)から人気映画「釣りバカ日誌」シリーズに鈴木一之助役として出演しスーさんの愛称で親しまれます。
この映画の主演を務める西田敏行さんは、アドリブが多く三國連太郎さんは悩まされていたそうです。そこで「もっと相手を考えた芝居をしてくれないと周囲が迷惑する。僕にとっても迷惑。」と伝えると、西田敏行さんは唖然としていたそうですがその後はアドリブが減ってやりやすくなったと話されています。
上の画像は、1988年三國連太郎さん65歳で出演した映画「釣りバカ日誌」のDVDです。なんだかんだ西田敏行さんと素敵なコンビであることが画像からも伝わってきてほっこりしますね!
けん釣りバカ日誌はこの後22作も続く人気作品になったよね!この作品に三國連太郎さんはどういう想いがあったのかな?
のぞみ三國連太郎さんは、釣りバカ日誌の出演を1回だけのつもりで受けたんだって!「このまま続けると、僕自身がダメになるんじゃないか」と降板を考えたこともあったそうだよ!
70代(1993年〜2003年)
三國連太郎さんは、1995年(当時72歳)の時に小説を原作とした映画「三たびの海峡」で主演を飾り第19回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞されました。この映画は、日本映画初の本格的韓国ロケーションをした作品です。
三國連太郎さんは、1998年(当時75歳)の時に写真集「Cigar 三國連太郎」を発売されました。この写真集はモノクロ写真で構成されており三國連太郎さんの飾らない姿が映し出されています。
引用元:Amazon
上の画像は、1998年三國連太郎さん75歳の時に発売した写真集「Cigar 三國連太郎」です。さすがは三國連太郎さん!モノクロでもすごくかっこよく素敵です!バックの海も似合いますね!
引用元:NHK
三國連太郎さんは、1999年(当時76歳)の時に映画「生きたい」で年老いて失禁もしてしまうという役を演じ俳優魂を感じさせる演技を見せました。
同年に、NHKドラマ「ふたりでタンゴを」に出演し70代も俳優として大活躍を見せます。このドラマで共演した小林幸子さんは「三國さんとはお芝居とはいえ水族館デートまでさせていただいて、まるで夢のようでしたね。」と三國連太郎さんへのリスペクトが感じられるコメントを残されました。
上の画像は、1999年三國連太郎さん76歳の時に出演したドラマ「ふたりでタンゴを」のワンシーンです。ベレー帽がよく似合いますね!いくつになってもおしゃれな方です!
けん三國連太郎さんは歳をとってもかっこいいね!70代でも役者の引退などは考えなかったのかな?
のぞみ三國連太郎さんは「最後まで役者でいたいと思っています。それを奪われることが嫌です。ものすごい恐怖を覚えます。演じられない僕に、生きる価値はありませんから」と話されていたよ!
80代(2003年〜2013年)
三國連太郎さんは、2011年(当時88歳)の時に膝関節の柔軟性に効果があるとされている機能性表示食品「皇潤」のCMに、西田敏行さんと出演されました。CMの内容は、西田敏行さんは三國連太郎さんの米寿を祝って「皇潤」をプレゼントするというものですが2人の息ぴったりなアドリブが面白すぎると話題になります。
西田敏行さんは三國連太郎さんをリスペクトしており、対して三國連太郎さんは西田敏行さんについて「特異な才能を持った俳優です。既成の枠を飛び越えた芝居をする。」と過去に語られていました。
上の動画は、2011年三國連太郎さん88歳の時に出演された機能性表示食品「皇潤」のCMです。本当に面白いCMですね!面白く且つかっこいい素敵なお2人です!
三國連太郎さんは、2012年(当時89歳)の時に映画「わが母の記」に出演し俳優人生最後の作品となります。2013年4月14日に急性呼吸不全の為、90歳で逝去されました。
けん最期まで俳優として世間に感動や笑顔を届けてくださった偉大な方だね!三國連太郎さんは、亡くなる時何か想いはあったのかな?
のぞみ三國連太郎さんは、生前「戒名はいらない。三國連太郎のままでいく」と話されていたそうだよ!この言葉にどんな想いがあったかはご本人にしか分からないけど、最期までかっこいい方だね!
三國連太郎のプロフィール・SNS
- 名前:三國連太郎(みくに れんたろう)
- 本名: 佐藤 まさお(さとう まさお)
- 生年月日:1923年1月20日
- 年齢:90歳没(2013年4月14日)
- 出身地:静岡県
- 血液型:AB型
- 趣味:音楽鑑賞、絵画、散歩
- 愛車:ポルシェ
- 所属事務所:プロダクション「APC」
引用元:ORICON NEWS
著書
けん三國連太郎さんは、芸名なんだね!由来はあるのかな?
のぞみデビュー作映画「善魔」で演じた役名が三國連太郎でそのまま、芸名に使ったんだって!
三國連太郎の石田えり交際説・息子との関係・若き日の魅力まとめ
- 三國連太郎と石田えりの交際は噂であり、事実を裏付ける情報は見当たらないとされている
- 両者は映画「釣りバカ日誌」シリーズで共演し、息の合った演技が噂の発端になったとされている
- 石田えりは1994年の7作目を最後に同シリーズを降板しており、降板理由は諸説あるが確証は示されていない
- 不適切なアプローチや圧力があったとの話も流布するが、いずれも根拠不明の噂とされている
- 「イメージ固定を避けるための降板」という見方もあり、こちらも推定の域を出ない
- 三國連太郎の息子は俳優の佐藤浩市であり、1957年の三度目の結婚の相手との間に誕生している
- 幼少期の直接的な関わりは多くなかったが、運動会に来校したエピソードが語られている
- 親子は1996年のドラマ「美味しんぼ」で初共演し、その後も俳優として互いに存在感を示している
- 三國連太郎は1951年「善魔」でデビューし、第2回ブルーリボン新人賞を受賞している
- 1952年「本日休診」に出演後、東宝と年間4本の出演契約を結ぶなど活動の場を広げている
- 1956年「ビルマの竪琴」に出演し、作品は国際的な評価を受けたとされている
- 1957年「異母兄弟」では役作りのため歯を抜くなど徹底した姿勢が語られている(後に総入れ歯とする情報あり)
- 1960年「大いなる旅路」で主演を務め、ブルーリボン賞主演男優賞を受賞している
- 1965年「飢餓海峡」などで主要映画賞を受賞し、日本映画界での地位を確立している
- 1974年「襤褸の旗」では土を食べるシーンが話題となり、アドリブと伝えられている
- 1988年以降は「釣りバカ日誌」で“スーさん”として親しまれ、西田敏行との関係性が語られている
- 2012年「わが母の記」が遺作となり、2013年に急性呼吸不全で90歳で逝去している
- 交際説は未確認の噂にとどまり、三國連太郎は若き日の美貌と徹底した役作り、そして親子の絆で記憶される存在である





















