三浦雄一郎さんは“生涯現役の冒険家”です。病弱だった幼少期からスキーに出会い、富士山直滑降やエベレスト滑降、そして70歳・75歳・80歳でのエベレスト挑戦など、常識を超える挑戦で世界を驚かせてきました。
2020年に特発性頸髄硬膜外血腫で要介護4となるも驚異的に回復し、2021年には富士山五合目の聖火ランナー、翌年は雪上復帰、2023年には90歳で富士山登頂を実現します。
今も「目標を掲げ続ける」姿勢でリハビリとトレーニングを継続しています。本記事では、その三浦雄一郎さんの現在地を軸に、息子の三浦豪太さん(プロスキーヤー/医学博士)が果たしてきたサポートや家族の教育観まで、親子の“挑戦の系譜”をまとめて解説します。
この記事でわかること
- 三浦雄一郎さんの現在(手術後の回復~聖火ランナー・雪上復帰・90歳で富士山登頂)
- 若い頃からの冒険史(富士山直滑降/エベレスト滑降/七大陸の挑戦)
- 息子・三浦豪太さんのプロフィールと役割(プロスキーヤー/医学博士、登山サポート)
- 親子の主な実績(2003・2013年のエベレスト登頂とその意義)
- 三浦家の教育観(放任主義=「やりたいことを徹底する」)
【画像】三浦雄一郎の息子はだれ?職業は?
三浦雄一郎の息子は三浦豪太さんです。三浦豪太さんは1969年、神奈川県鎌倉市生まれ。幼い頃から冒険家・三浦雄一郎さんの息子として、キリマンジャロ(11歳で最年少登頂)やエルブルース、モンテローザといった海外登山に参加し、まさに“冒険家ファミリー”の一員として育ちました。
1991年(当時21)からはフリースタイルスキー・モーグル競技に転向し、全日本選手権優勝、長野オリンピック13位、W杯5位入賞など、日本を代表するモーグル選手として10年にわたり世界の第一線で活躍しました。
引用元:ミウラドルフィンズ
その後、アメリカ・ユタ大学でスポーツ生理学を学び、2001年に卒業します。2003年には父・雄一郎さんとともにエベレスト登頂を果たし(当時34)、日本人親子同時登頂の初記録を達成します。2013年には、80歳の父のサポート役として、2度目のエベレスト登頂に成功しました(当時44)。
現在はプロスキーヤーとしての顔を持ちつつ、順天堂大学大学院で医学博士号(加齢制御医学)を取得しています。
低酸素・高酸素環境下での遺伝子研究やアンチエイジング分野に取り組みながら、子どもから高齢者まで幅広い世代に向けたアウトドア・トレーニングを国内外で展開中です。
また、慶應義塾大学特任准教授、国連WFP協会顧問など、研究者・教育者・社会活動家としても幅広く活躍しています。
けん豪太さんはお父さんの雄一郎さんの教育方針についてなにか言ってるのかな?
のぞみ豪太さんは「放任主義」だとおっしゃってるわ。「自分のやりたいことは自分で見つける、やりたいことは徹底してやる」という方針だそうよ。三浦家では三人の子ども達がそれぞれ異なった分野で役割をもち、いざというときチームが組める理想的な形態になってるんですって!
【画像】三浦雄一郎は現在なにしてる?
2020年、三浦雄一郎さん(当時87)は特発性頸髄硬膜外血腫を発症し、緊急手術を受けました。手足に麻痺が残り、「要介護4」と診断され、自力で立つことも歩くこともできない状態になったのです。
引用元:amazon
それでも、息子・三浦豪太さん始めご家族のサポートと自身の懸命な努力によって、医師も驚くほどの回復を見せ、2021年には富士山五合目で東京五輪の聖火ランナーとして参加しました。翌年にはスキーにも復帰し、豪太さんと共に“デュアルスキー”で雪上を滑りました。
そして2023年、90歳で富士山登頂を達成します。支援チームと共に、山岳用車いすを駆使しながら、仲間や家族とともに富士山頂へたどり着きました。三浦さんは「何回登っても感動する。孫や仲間たちと見たこの素晴らしい情景は生涯忘れない」と語っています。
この経験と想いは、著書『諦めない心、ゆだねる勇気――老いに親しむレシピ』にもつづられています(上画像)。老いを受け入れながらも挑戦をやめない、三浦雄一郎さんの“生きる知恵”が詰まった一冊です。
けん三浦さんは年を重ねても常にチャレンジしているけれど、何が原動力になっているのかな?
のぞみ「目標を掲げていること」なんですって。高齢になっても目標を持ち続けることが非常に重要で、目標があることで日々の生活に意味が生まれ、前向きな気持ちを維持できるとおっしゃっているわ。
今もリハビリ中で、夢や目標を叶えるために取り組んでいるそうよ!
【画像】三浦雄一郎は若い頃から冒険家!
幼い頃は病弱で、結核や肋膜炎に苦しみ、学校にも通えなかった三浦雄一郎さん。しかし、そんな彼にとってスキーとの出会いが人生を変える転機になりました。
滑る楽しさを知ったことで、弱かった身体がみるみる鍛えられ、「自分にもできることがある」という自信を持つようになります。大学ではスキー部のキャプテンとして活躍し、「世界で誰もやったことのないことをしてみたい」という情熱が芽生えました。安定した大学助手の職を捨て、プロスキーヤーとして挑戦を始めたのもその信念からです。
誰も滑ったことのない斜面、誰も想像しなかった挑戦――その原動力は、幼い頃に抱いた「自由に滑る喜び」と「自分の可能性を信じたい」という思いでした。三浦さんにとって“冒険”とは、恐れを超えて生きる証であり、限界に挑むことで人生を豊かにする手段でした。
20代・30代(1952年~1972年)
1932年、青森県に生まれた三浦雄一郎さん。今でこそ“冒険家”のイメージが強いですが、幼い頃は病弱で、幼稚園は中退、小学校では結核や肋膜炎にかかり、学校に通えない時期が続きました。
そんな彼がスキーと出会ったのは小学校2年生の時、弘前城公園の坂を滑った体験がきっかけでした。やがて一家は仙台へ移り住み、本格的にスキーに取り組むようになりました。旧制青森中学・弘前高校時代には、数々の大会で優勝を果たし、その才能を開花させていきました。
引用元:キネヅカ
三浦さんはスキーがしたい! という理由で父の出身校である北海道大学の獣医学部に進学しました。スキー部のキャプテンを務め、インターカレッジに出場し、専門のアルペンスキー種目で実績を上げたほか、スキージャンプの全国的大会でも上位入賞しました。
在学中に運命の女性・朋子さん(当時、スキー選手)と出会い、後に結婚します。三浦さんは留学を夢見ていましたが、再び肺を病んで断念します。卒業後はは北大獣医学部で助手として働き、家畜の世話をする日々を送りました。
上の画像は小学生にして、大学生の合宿に参加時のものです。写真中央の少年が雄一郎さんです。
引用元:Faust
1958年、三浦雄一郎さん(当時26)は安定した収入を得られる北海道大学の助手職を辞め、新たな世界に飛び込みます。
その原動力となったのは、「スキーや山の分野で、世界で誰も想像しなかったことをやってみよう」という強い想いでした。
三浦さんはプロスキーヤーとしての道を歩み始め、世界中のトップ選手とスピードと技を競い合う日々が始まります。1964年にイタリアで行われたスキーのスピードレース「プロメーターランセ」では、なんと世界新記録を樹立します。瞬間時速172kmという異次元のスピードを記録し、世界を驚かせました。
上の画像は1964年の「プロメーターランセ」(当時32)のものです。とんでもない急傾斜ですね!
引用元:Faust
1966年、三浦雄一郎さん(当時34)は富士山の頂上近くからスキーで直滑降するという大胆な挑戦に挑みました。
きっかけは電車の窓から雪の富士山を見て「あの斜面を真っすぐ滑ったら楽しそうだ」と思いついたのだそうです。
しかし斜面の傾斜とスピードの危険を考え、彼はパラシュートを背負って滑る(上画像)という前代未聞のアイデアを実行します。スピードレース「キロメーターランセ」での経験と、パラシュート降下の知識が活かされました。
奇抜に見えても、しっかりとした裏付けと経験に基づくこの挑戦は、三浦さんの探究心と行動力が光った、伝説の滑降になりました。
引用元:Faust
三浦雄一郎さんは人類初のエベレスト登頂者、エドモンド・ヒラリー卿のもとに招かれ、ランチの席でエベレストの真っ白な斜面の写真を見て、ふと「ここ、滑れそうだな」と思いついたことから、前代未聞の世界最高峰エベレスト・スキー滑降計画が始まりました。
このプロジェクトは、単なる登山や滑降ではなく、数十人に及ぶサポート体制、機材の選定、資金確保、気象条件の分析など、まさに巨大な冒険計画でした。
1970年、三浦雄一郎さん(当時38)は標高8000mのサウスコルからの滑降(上画像左)に見事成功します。この偉業はドキュメンタリー映画『エベレストを滑った男(The Man Who Skied Down Everest)』として公開され、1975年にはアカデミー賞・長編ドキュメンタリー賞を受賞しました。
三浦雄一郎さんは、名実ともに世界が認める冒険家となったのです。
上の画像右はエベレスト滑降計画に参加したメンバー達と三浦さんです。これだけ大勢の人たちが参加したんですね!
けん三浦さんは巨大な冒険計画をどうやって進めたんだろう?怖くなかったんだろうか?
のぞみ三浦さんは「リーダーとは、旗印を下ろさず、最後まで目標を信じること。そしてバカみたいに陽気でいること」とおっしゃってるわ。無謀でも、怖くても、前に進み、みんなを引っ張っていく。それがリーダーなのね!
40代・50代(1972年~1992年)
1970年のエベレスト滑降成功後も、三浦雄一郎さんの冒険心は衰えることなく、世界中の山々へ挑戦を続けました。
1981年(当時49)には、アフリカ最高峰のキリマンジャロ(5895m)を、なんと親子三代(父親の敬三氏、次男の豪太さん)でスキー滑降します。家族での挑戦は、多くの人に感動を与えました。1983年(当時51)には南極大陸でのスキー滑降ビンソン・マシッフ(4892m)に成功します。三浦さんはこの冒険を著書にしました。(下画像)
引用元:amazon
1985年(当時53)には、当時ソ連領だったエルブルス山(5633m)、そして南米最高峰アコンカグア(6959m)の滑降にも成功します。こうして三浦さんは、1970年代から1980年代にかけて世界七大陸最高峰のスキー滑降を見事達成したのです。
40代・50代になっても、誰もやったことのない冒険へ挑み続ける姿勢は、まさに“世界を滑る男”。年齢を重ねても「限界をつくらない」三浦さんの生き方は、多くの人の心を打ちました。
けんキリマンジャロに親子三代で登頂、スキー滑降ってお子さんはいくつだったのかな?
のぞみ次男の豪太さんは当時11歳だったんですって。アフリカ大陸のキリマンジャロ山へ、ソロモンの秘宝を探しに行こうとお父様の雄一郎さんに誘われてその気になったそうよ!!
60代・70代(1992年~2012年)
1990年代に入り、三浦雄一郎さんの名は一時メディアから姿を消します。60歳を迎え、七大陸滑降という夢もすべて叶えたことで、御本人も「やるべき冒険はやり尽くした」と感じていたそうです。
引用元:Faust
その後はクラーク記念国際高等学校の校長として教育に尽力し、講演や付き合いで多忙な日々を送る一方、生活は乱れがちになります。暴飲暴食の影響で、狭心症・高血圧・高脂血症・糖尿病寸前という、いわば「メタボのフルコース」になりました。65歳の時医師からは「余命3年」という宣告まで受けます。
しかし、三浦さんは「どうせ死ぬなら、死んだ気になってエベレストに登ろう」と一念発起し、再びトレーニングを始めます。2003年、70歳7か月で見事にエベレスト登頂を達成しました(上画像)。これは当時世界最高齢での登頂成功となります。
人生のどん底から、再び世界の頂へ――これが“冒険家・三浦雄一郎”の復活でした。
引用元:amazon
2008年、三浦雄一郎さんは75歳にして、再びエベレスト登頂に成功しました。70歳での復活登頂から5年、さらなる高齢での挑戦は「無謀」とも言われましたが、三浦さんはそれを「人生最後の挑戦」として全力で挑んだのです。
「涙が出るほど辛くて、厳しくて、嬉しい」登頂を果たした瞬間、三浦さんの口から出た言葉です。苦しいトレーニング、体調との戦い、あらゆる困難を乗り越えてつかんだ達成感が、すべて詰まっていました。
この経験をもとに、三浦さんは著書も執筆しています(上画像)。人生をどう生きるか、年齢に関係なく挑戦することの大切さを、自らの言葉で語りかけています。
けん75歳でエベレスト登頂なんて凄すぎるよね。世界最高齢を更新したのかな?
のぞみ残念ながら、前日にネパールのシェルチャンが76歳で登頂していたため、最高齢記録更新にはならなかったのよ。それが再チャレンジに繋がったのよ!
80代以上(2012年~)
引用元:ウェザーニューズ
2013年、三浦雄一郎さんは80歳にして3度目のエベレスト登頂を果たし(上画像)、世界最高齢登頂記録を更新しました。心臓手術の直後に登頂という命をかけた挑戦に、日本中が驚きと感動で沸きました。
三浦さんは「エベレストで死んだら、そこが自分の墓。これ以上いいお墓はない」とお話しされており、これができたら死んでもいいとすら思って、命がけで冒険していることが伺えます。
この快挙を称えて、日本政府は「三浦雄一郎記念日本冒険家大賞」を創設しました。三浦さんは名実ともに、日本を代表する冒険家となったのです。
引用元:NHK
2019年、三浦雄一郎さんは86歳にして、南米最高峰アコンカグア(標高6959m)への登頂に挑みました(上画像)。
日本時間の1月18日夜、ベースキャンプを出発し、順調に進めば4日後には山頂に立つ計画でした。
しかし、心臓に持病を抱える三浦さんの体調を考慮し、1月21日未明、同行していた医師の判断により登山を中止、
安全を最優先するという決断が下されました。
登頂は叶いませんでしたが、86歳でなお挑戦を続けるその姿は、多くの人々に勇気と希望を与えました。
けん三浦さんは1人で登山しているんじゃないよね?
のぞみいつも次男の豪太さんが同行しているわよ。ご家族と一緒にいるのが一番安心よね!
三浦雄一郎のプロフィール・SNS
- 名前:三浦雄一郎(みうら ゆういちろう)
- 生年月日:1932年10月12日
- 年齢:93歳(2025年10月現在)
- 出身地:青森県
- 趣味:トレーニング
- 特技:スキー 登山
- 所属事務所:ミウラドルフィンズ
引用元:朝日新聞
SNS
- オフィシャルサイト URL:http://www.snowdolphins.com/index.html

けん三浦さんの趣味、トレーニングは何なのかな?
のぞみ体力を維持するためのトレーニングよ!「攻める健康法」と名付けて重りを付けて頑張っていらっしゃるわ!
三浦雄一郎の息子・三浦豪太の経歴と三浦雄一郎の現在まとめ
- 三浦雄一郎の息子は三浦豪太で1969年生まれ
- 幼少期から父に同行し11歳でキリマンジャロ登頂を経験している
- 1991年からモーグルに転向し全日本選手権優勝の実績がある
- 長野五輪で13位入賞しワールドカップでも5位入賞を果たしている
- ユタ大学でスポーツ生理学を学び2001年に卒業している
- 2003年に父とともにエベレスト親子同時登頂を達成している
- 2013年は80歳の父のサポートとして2度目のエベレスト登頂に成功している
- 現在はプロスキーヤーとして活動し研究や指導にも携わっている
- 順天堂大学大学院で加齢制御医学の医学博士号を取得している
- 低酸素や高酸素環境下の遺伝子研究とアンチエイジング分野に取り組んでいる
- 子どもから高齢者までのアウトドアトレーニングを国内外で展開している
- 慶應義塾大学特任准教授や国連WFP協会顧問など多方面で役割を担っている
- 三浦家の教育方針は放任主義とされ自分のやりたいことを徹底する姿勢を重視している
- 三浦雄一郎は2020年に特発性頸髄硬膜外血腫で要介護4となったが回復している
- 2021年に富士山五合目の聖火ランナーを務め翌年にデュアルスキーで復帰している
- 2023年に90歳で富士山登頂を達成し目標を掲げ続ける重要性を語っている
- 若い頃の三浦雄一郎は世界新記録のスピード滑降やエベレスト滑降で名を上げている
- 父子ともに挑戦を継続し研究と実践で冒険の価値を社会に還元している













