美輪明宏さんに結婚歴はありません。一方で、実子はいないものの元俳優の藤堂貴也さんと養子縁組を結び、公私にわたって支え合う関係を築いてきました。
若い頃が「イケメン」と語られる理由は、彫りの深い端正な顔立ちと中性的な雰囲気、舞台や歌で観客を惹きつける圧倒的な存在感が外見と内面の魅力として同居していたからです。
16歳で上京後「銀巴里」でブレイクし、1957年の「メケ・メケ」で一世を風靡。戦中戦後を生き抜いた経験から培われた共感力が表現に厚みを与え、「天上界の美」と評される独自の美学を確立しました。
作家・三島由紀夫とは若き日に出会い、互いを高く認め合う特別な間柄で、1971年の改名「美輪」もその供養の読経中に閃いたと語られています。結婚制度に依らず、信頼で結ばれた人間関係と表現者としての美——それが本記事の核です。
この記事でわかること
- 美輪明宏さんに結婚歴がない理由と、三島由紀夫との特別な関係
- 実子はいないが、養子・藤堂貴也さんとの関係と現在の役割
- 「若い頃イケメン」と評される顔立ち・雰囲気・存在感の具体要素
- 銀巴里デビュー〜「メケ・メケ」「ヨイトマケの唄」までの主要トピック
- 改名「美輪」に込められた背景と時代を超える美学
【画像】美輪明宏は結婚歴がある?
美輪明宏さんは過去にご自身で公表されている通り同性愛者で、日本では同性婚が不可能なこともあり、結婚していたことは一度もありません。ですが、美輪さんには夫婦と同じくらいかそれ以上にお互い認め合い、尊敬し合っていた相手がかつて存在していました。それは作家の三島由紀夫さんです。
引用元:PRESIDENT Online
美輪さんが上京して音楽学校に通っていた16歳の頃に、アルバイト先の喫茶店で10歳年上の三島さんと出会いました。
会えば冗談ばかり言い合っていて、過去にはこんな会話もあったのだとか。
引用元:西日本新聞
三島さん「君はね、95%は素晴らしい。だけど、あと5%の最悪な欠点があって、95%の長所をひと消しにするんだ」
美輪さん「え?そんな力のあるすばらしい欠点って何です?」
三島さん「それは俺にほれないことだ」
美輪さん「私はかわいそうな人が好きなんです。だから三島さんは恋愛の対象になりません。お気の毒さま」
三島さん「君は誤解している。俺はかわいそうだぞ。ある雨の日、君と別れて、傘を差してしょんぼりと帰っていく俺の後ろ姿を想像してみろ。ほれたくなるほどかわいそうだぞ」
引用元:NHK
その後三島さんは45歳でこの世を去ってしまうのですが、前述の通りでその供養のための読経中に「美輪」という字を思いついて芸名として使っているところからも、彼が特別な存在だったことが分かりますね。
けん美輪さんと三島さんが最後に会ったのはいつだったのかな?
のぞみ1970年の11月(当時35歳)、300本はあろうかというバラの花束を持って美輪さんの楽屋に訪ねてきたのが最後なんだって。
そのバラについて美輪さんは、「これからの分も全て渡すから分かってくれ」という意味だと解釈しているよ。
美輪明宏と息子の関係は?
同性愛者の方はパートナーとの間の子供を持てず、そのことについては美輪明宏さんも例外ではなくて、彼と血の繋がった子供はいません。ですが、養子縁組をして戸籍上は「美輪さんの子供」ということになっている方がいらっしゃいます。元俳優の藤堂貴也さんです。
引用元:仮面ライダーWeb
藤堂さんは美輪さんの17歳年下です。文学座の研究生だった17歳の頃に美輪さんの付き人が辞めることとなり、知人の紹介で付き人となって以来身の回りのお世話をするようになったそうです。
引用元:NEWSポストセブン
その後は「青年座」や「青俳」などに在籍し、NHK大河ドラマ「黄金の日日」にも出演経験があり、さらに声優としても活動されていました。現在は美輪さんの所属する個人事務所「オフィス・ミワ」の社長も務めており、名実ともに美輪さんを支えています。
けん藤堂さんとの養子縁組をしていたことはいつ世間に知らされたの?
のぞみ2013年(当時78歳)の週刊文春で、そこから8年前に養子縁組をしていたことを報じられていたよ。
【画像】美輪明宏は若い頃イケメン!
美輪明宏さんが「若い頃イケメン」と言われるのは、単に整った顔立ちだけでなく、その存在感と内面の美しさが融合していたからです。10代の頃から純日本人とは思えないほど彫りの深い顔立ちで、瞳が大きく、均整の取れた鼻筋や唇のラインはまるで西洋の彫刻のようでした。
しかもその中性的な魅力が、時代を先取りする“ジェンダーレスな美”として際立っていました。さらに、幼少期に原爆の惨状を目の当たりにし、人の痛みや弱さに深く共感できる感性を身につけたことが、外見だけでなく心の美しさをも滲ませるイケメン像を形づくりました。
のちに三島由紀夫氏から「天上界の美」と称されたように、美輪さんの若き日の美しさは「肉体の美」と「精神の品格」が一体となった、唯一無二の“神秘的なイケメン”そのものだったのです。
幼少期・10代(1935年~1955年)
美輪明宏さんは、1935年5月15日に、長崎県長崎市で寺田作一さん・ヌメさんご夫婦の次男として誕生しました。出生名は「寺田臣吾」でしたが、お母さんの実家の跡継ぎとして養子に出され、「丸山臣吾」へと改姓しています。美輪さんのご実家は料亭やカフェや風呂屋を経営して成功を収めており、美輪さんは経済的に豊かな環境で育ちました。
個人の家にお風呂が無く良家の人々も風呂屋通いをしていた時代で、身なりの立派な人が脱ぐと貧相な体つきだったり、その逆で野良着を着た労働者が彫刻作品のような体つきだったりすることが多かったそうです。
引用元:NHKアーカイブス
「容姿・性別・国籍などの目に見えるものより、見えないものを見る」という意識が美輪さんの中に芽生えたのは、幼い頃のそれらの出来事がきっかけでした。
上の画像は、1949年(当時14歳)の美輪明宏さんです。
引用元:サライ.jp
この年代の方は子供時代に戦争があり、それも原子爆弾を投下された長崎市にお住まいだった美輪明宏さんは10歳の頃にその被害を受けています。美輪さんは大きな怪我は無かったそうですが、防空壕に向かう途中で見た、全身をやけどした人だらけの阿鼻叫喚の地獄は忘れられないと語っています。
この頃の美輪さんのお父さんはカフェを畳んで金融業に転業されていましたが、原爆により貸付先が相次いで破産・死去したため、返済を受けられなくなって貧乏生活に陥ってしまいます。お父さんの後妻は亡くなり、後々妻は失踪したため、美輪さんは異母弟達と辛い生活を送りました。
終戦後に見た映画に出演されていた加賀美一郎さんのボーイソプラノに衝撃を受けて、ほどなくして声楽とピアノのレッスンを受け始めました。
上の画像は、1950年(当時15歳)の美輪明宏さんです。純日本人なのが信じられないくらい彫りが深くて洋風な顔立ちですね!
引用元:NHKアーカイブス
オペラ歌手やコンサート歌手を夢見ていた15歳の美輪明宏さんは、国立音楽高等学校(現在の国立音楽大学附属高等学校)に進学するため上京しました。「丸山明宏」に改名したのはこの頃です。
生活が苦しい親戚を見捨てようとしたお父さんと大喧嘩をして絶縁を言い渡され、仕送りも止められたため、美輪明宏さんは東京で自活するために高校を中退して進駐軍のキャンプ廻りをして歌を披露していたとのことです。
1952年に17歳になった美輪さんはゲイバーなどでのアルバイトもして日当を稼いでいました。その頃に銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で美少年兼歌手募集の貼り紙を見て応募し、歌手として専属契約を交わして「国籍・年齢・性別不詳」として売り出しました。
上の画像は、1954年(当時19歳)頃の美輪明宏さんです。
けん美輪さんのお父さんはどうしてカフェを畳んだんだろう?
のぞみ日本とイギリス・アメリカの戦争が始まって、「敵国の文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」と言われたからなんだって。
この頃の日本は「敵国の文化も敵」という考え方で、「ドーナツ」や「パン」などの言葉を使うことも禁止されていたんだよ。
20代(1955年~1965年)
美輪明宏さんは1957年(当時22歳)、シャンソン「メケ・メケ」を日本語でカバーし、艶麗な容貌で歌い上げて一躍人気を博します。
元禄時代の小姓衣装を洋装に取り入れ、レース地のワイシャツ等を身に纏った中性的なファッションと美貌で、マスメディアから「神武以来の美少年」「シスターボーイ」と評され一世を風靡しました。
同年の映画「暖流」(増村保造さん監督)にも歌手として出演されています。
引用元:日本コロムビア
上の画像は、「メケ・メケ」のジャケットです。三島由紀夫さんから「天上界の美」と絶賛されていたのも納得の美しさですね!
引用元:PRESIDENT Online
華やかに活躍されていた美輪明宏さんでしたが、この頃は苦労もされていました。以前親戚のことで揉めて絶縁を言い渡してきたはずのお父さんが、事業に失敗してお金の無心をしてくるようになったのです。
かつて生活に困った親戚を見捨てようとしたお父さんと同じことが美輪さんに出来る訳もなく、かといって許す気持ちにもなれませんでしたが、兄弟の生活を守るために歌手活動とは別でキャバレーなどで歌っていました。
また、「メケ・メケ」のブームも1年ほどで沈静化しました。
上の画像は、1957年(当時22歳)頃の美輪明宏さんです。
引用元:文春オンライン
ブームの沈静化の原因は「生々しさ」にあったと考えられています。
美輪明宏さんご自身が同性愛者であることを週刊誌で公表されましたし、美輪さんの語る従来の「蝶よ花よ、星よ月よに終始する“おシャンソン”」とは異なる生々しい内容の歌に対する反発もありました。
そうして人気が急落していく逆風の中で作詞作曲活動を開始しました。美輪さんの重要なレパートリーとなった「うす紫」「金色の星」「ふるさとの空の下」等の音楽作品はこの頃に生まれたものですが、当時の聴衆からも歌謡界からも理解されなかったそうです。
不遇の時代が続きましたが、1963年(当時28歳)には中村八大さん達の助力により自らの作品によるリサイタルを開催し、翌年には「ヨイトマケの唄」を初めてステージで披露しました。
けん原爆の被害を受けた人って、運良く大怪我を免れてもその後色々な症状が出て来るんじゃなかったっけ?美輪明宏さんは大丈夫だったの?
のぞみ20代後半あたりから吐血などの原爆症に悩まされていたみたいだよ。
自分や自分の歌が人々から理解されなかった時期と重なってるから、どちらも辛かっただろうね。
30代(1965年~1975年)
美輪明宏さんは、1965年(当時30歳)に「ヨイトマケの唄」をレコード化し、それが翌年に注目されて人気が再燃しました。こちらは美輪さんが幼少期に一緒に育った友人の亡き母を回顧する歌です。
作詞作曲のきっかけは炭鉱町でのコンサートでした。炭鉱労働者たちが安い賃金をつぎ込んでチケットを求めて客席を埋め尽くしている光景を見て、「これだけ集まってくれているのに私にはこの人達に歌える歌が無い」と感じ、労働者の曲を作る決意をしたのだとか。
テレビ出演の際は白のワイシャツに黒の細身のスラックス姿で登場し、戦後の貧しい少年からエンジニアへと立派に成長した凜々しい青年を演じた美輪さんの姿は、多くの人々の胸を打ちました。
引用元:Amazon
上の画像は、「ヨイトマケの唄」のジャケットの写真です。
引用元:Amazon
30代の美輪明宏さんは俳優としても活躍されていました。寺山修司さんの演劇実験室・劇団天井桟敷旗揚げ公演で、寺山さんが美輪さんのために書き下ろした舞台作品「青森県のせむし男」や「毛皮のマリー」で主演を務めています。
江戸川乱歩さん原作・三島由紀夫さん脚本の舞台「黒蜥蜴」に主演して以降も、「椿姫」「マタ・ハリ」、ジャン・コクトーさん原作「双頭の鷲」といった舞台や、「黒薔薇の館」「雪之丞変化」等の映画・テレビドラマでの主演を続けました。
改名をされたのもこの頃です。1971年(当時36歳)に「美輪」という字が思い浮かび、姓名判断を調べると完全無欠な画数だったため、現在も使われているお名前の「美輪明宏」に改名しました。
上の画像は、1968年(当時33歳)に発表した自叙伝「紫の履歴書」の表紙の写真です。
けん「美輪」という字は何がきっかけで思いついたのかな?
のぞみ三島由紀夫さんの供養のための読経中に浮かんで、「生前三島さんが三輪神社で修行していたことに気付き神が与えてくれた名前だ」と思ったみたいだよ。
40代以上(1975年~)
1978年(当時43歳)の「枯葉の寝床」で舞台出演を再開しましたが、この頃から体調が悪化しだして、1985年(当時50歳)の「大典礼」の後はしばらく舞台から遠ざかっています。
ですが歌手としては活躍を続け、1987年(当時52歳)にはパリやマドリードなどでリサイタルを開催し、多数の新聞・雑誌に絶賛されました。
引用元:婦人画報
1990年(当時55歳)には40年近く歌い続けてきた銀座のシャンソン喫茶店・銀巴里が閉店となり、美輪さんは最後の日の「さよならコンサート」で自ら作詞作曲した「いとしの銀巴里」を涙ながらに歌い上げました。
この模様をメディアに大きく取り上げられたことで、メケメケ・ヨイトマケ・黒蜥蜴に続く4回目のブームが訪れて、テレビへの出演が増えました。
上の画像は、42歳の頃の美輪明宏さんです。
引用元:映画ナタリー
1993年(当時58歳)、舞台に立てないほど悪化していた持病が前年に奇跡的に完治し、24年ぶりに待望の「黒蜥蜴」を再演しました。
1997年(当時62歳)には、映画「もののけ姫」で声優を務め、東京スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞しています。「黙れ小僧!」は特に印象的な台詞として多くの人に記憶されました。
美輪明宏さんといえば黄色く染めた長髪ですが、この髪型になったのは1998年(当時63歳)頃からのようです。
色々な病気をしてきて、中でも30代で肺を患った時は髪が一気に白髪になったのだとか。その後は長い間黒く染めていましたが、1998年頃から現在の髪型になりました。
けん髪を黄色に染めようと思ったのはどうしてだろう?
のぞみあの黄色は風水に基づいて、金運アップのために選んだ色なんだって。
美輪明宏のプロフィール・著書
- 名前:美輪 明宏(みわ あきひろ)
- 本名:丸山 明宏(まるやま あきひろ)
- 生年月日:1935年5月15日
- 年齢:90歳(2025年10月現在)
- 出身地:長崎県長崎市
- 血液型:A型
- 身長:161cm
- 所属事務所:オフィス・ミワ
引用元:OTOTOY
著書
- 1968年:「紫の履歴書」
- 1976年:「新・紫の履歴書」
- 1983年:「獅子の座蒲団 霊感・人生相談」
- 1984年:「霊の実在」
- 1987年:「生きるって簡単」
- 1987年:「悩まなくてよい本 霊能的雑業家の開運アドバイス」
- 1989年:「ほほえみの首飾り 南無の会辻説法」
- 1995年:「光をあなたに:美輪明宏の心麗相談」
- 1998年:「人生ノート」
- 2000年:「天声美語」
- 2000年:「強く生きるために」
- 2002年:「ああ正負の法則」
- 2002年:「愛の話 幸福の話」
- 2003年:「地獄を極楽にする方法」
- 2004年:「霊ナァンテコワクナイヨー」
- 2005年:「人生学校虎の巻」
- 2005年:「戦争と平和 愛のメッセージ」
- 2005年:「美輪明宏のおしゃれ大図鑑」
- 2007年:「世なおしトークあれこれ」
- 2008年:「続・人生学校虎の巻」
- 2008年:「乙女の教室」
- 2009年:「愛と美の法則」
- 2010年:「花言葉」
- 2011年:「悩みも苦しみもメッタ斬り!」
- 2012年:「明るい明日を」
- 2013年:「人生はドンマイドンマイ」
- 2015年:「楽に生きるための人生相談」
- 2016年:「心の嵐を青空に」
- 2018年:「愛の大売り出し」
- 2019年:「おだやかに生きるための人生相談」
- 2020年:「ほほえみを忘れずに。ルンルンでいきましょう」
- 2024年:「私の人生論 目に見えるものは見なさんな」
- 2024年:「愛のモヤモヤ相談室」
- 2024年:「あなたの人生を導く-美輪ことば」
けん美輪明宏さんの写真をスマホの壁紙にするのが一時期台湾で流行ってたのは何がきっかけだったんだろう?
のぞみ台湾の「PTT」っていう、日本の5ちゃんねるみたいな掲示板サイトでの書き込みがきっかけみたいだよ!
壁紙を美輪明宏さんにしたらすぐに臨時収入が入った人までいたんだって。
美輪明宏の結婚歴・養子との関係と若い頃の魅力まとめ
- 本人公表の同性愛者であり日本では同性婚が不可のため結婚歴はない
- 作家の三島由紀夫とは上京16歳の頃に出会い互いに認め合う特別な関係であったとされる
- 最後の対面は1970年11月で大量のバラの花束を受け取り別れの意図と受け止めたと述懐している
- 三島供養の読経中に「美輪」の字が閃き1971年に美輪明宏へ改名している
- 実子はいないが元俳優の藤堂貴也と養子縁組を結んでいる
- 藤堂貴也は17歳年下で17歳時に付き人となり以後身辺を支え続けている
- 養子縁組は2013年の報道で8年前に成立していたことが明らかにされたとされる
- 藤堂貴也は現在オフィス・ミワの社長を務め公私にわたり支えている
- 若い頃が「イケメン」と評される理由は彫りの深い中性的容貌と強い存在感が融合していたためである
- 幼少期に長崎で原爆被害の惨状を目撃し内面の共感性が形成されたことが魅力に厚みを与えている
- 17歳で銀座「銀巴里」に入り「国籍・年齢・性別不詳」で売り出された
- 1957年に「メケ・メケ」が大ヒットし「神武以来の美少年」と評された
- 同性愛公表や生々しい歌詞への反発で低迷するも自作曲「うす紫」「金色の星」などを生み出している
- 1963年に自作によるリサイタルを開催し1964年に「ヨイトマケの唄」を初披露、1965年のレコード化で再評価が進んだ
- 寺山修司作「毛皮のマリー」や三島由紀夫脚本「黒蜥蜴」などで主演し俳優としても評価を確立している
- 1990年の銀巴里閉店時に「いとしの銀巴里」を歌い第4のブームにつながり1997年には映画で助演男優賞を受賞している
- 黄色の長髪は1998年頃からで風水に基づく選択と語られている
- 結婚歴はないが養子と固い絆を築き、唯一無二の美と表現力で音楽・演劇双方に大きな足跡を残している















