岡田茉莉子さんはハーフではありません。無声映画の二枚目俳優・岡田時彦さんと、宝塚卒の女優・田鶴園子さんの間に生まれた“純日本人”の名女優です。
若い頃から意志の強さを湛えた美貌で脚光を浴び、松竹では有馬稲子さんと並ぶ「二枚看板」として活躍。代表作『秋津温泉』は自身が企画し、監督にスカウトした吉田喜重さんとはこの作品を機に惹かれ合い、プロポーズを経て結婚し、以後は創作の良き伴走者としても歩みました。『女のみづうみ』『エロス+虐殺』などで知性と気品を兼ね備えた存在感を確立し、毎日映画コンクール主演女優賞ほか受賞歴も多数。
晩年は自伝『女優 岡田茉莉子』で波瀾の半生を自ら記し、2022年に逝去した吉田監督への敬慕の言葉も残しています。本記事では「ハーフ説の真偽」「夫との馴れ初め」「若い頃の美しさと代表作」を一気に整理し、画像付きでわかりやすく解説します。
この記事でわかること
- 岡田茉莉子はハーフではない――両親(岡田時彦・田鶴園子)の来歴
- 夫・吉田喜重との出会い~プロポーズ~結婚までの流れ
- 若い頃の美貌が映える代表作と「松竹の二枚看板」時代の活躍
- 『秋津温泉』『女のみづうみ』『エロス+虐殺』の見どころ要約
- 自伝刊行や受賞歴、吉田監督の逝去とその後の歩み
【画像】岡田茉莉子はハーフなの?夫との馴れ初めは?
端正な顔立ちから「ハーフ?」と噂されますが、岡田茉莉子さんは純日本人。母は女優・田鶴園子、父は無声映画スター・岡田時彦で、父の死後は母に育てられました。
夫は映画監督の吉田喜重。自ら企画した『秋津温泉』でその才能を見抜きスカウトして知り合い、報道を機に互いを意識。撮影後に「これからも私と一緒に歩いてくれませんか」とプロポーズを受け、木下惠介監督立ち会いのもと西ドイツで挙式しました。
岡田茉莉子はハーフなの?
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岡田茉莉子さんは、そのきれいな顔立ちからハーフなのではないかとも言われていますが、ハーフではありません!
本記事冒頭でも触れましたが、岡田茉莉子さんは女優・田鶴園子さんと俳優・岡田時彦さんとの間に生まれました。
岡田時彦さんがなくなってから、田鶴園子さんが女手一つで子育てを行ったようです。
スタイルが良く、日本人離れしたお顔立ちなのでハーフと勘違いされることもあるようですが、純日本人のようですね!
ギモンくん岡田茉莉子さんは、母・田鶴園子さんにどんな思いを持っていたかな?
カイケツさん女優デビューの後、やめたいと話したこともあったようですが「母親を表札のある家に住まわせたい」という目標をかなえるため続けていたところもあるそうよ!
岡田茉莉子と夫の馴れ初めは?
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映画『秋津温泉』の製作で岡田茉莉子さんのスカウトをきっかけに知り合った岡田茉莉子さんと吉田喜重さん。
この作品の撮影の最中に「岡田茉莉子、吉田喜重と結婚を決意!」と『女性自身』がスクープをうち、憤慨もあったようですが、この記事をきっかけにお互いを意識するようにもなったとお話しされています。制作後も時間を作って会うようになり、お互いの話をするようになっていたようです。
プロポーズは吉田監督からだったそうで、『嵐を呼ぶ十八人』の撮影を終えた直後、「これからも私と一緒に歩いてくれませんか」という言葉だったようです。
岡田茉莉子さんは、この時のことについて「二人で映画を作りながら、ともに歩こうという意味に聞こえました」と微笑みながらお話しされています。
その後、お2人は師匠であった木下惠介監督の立ち会いの下、無事に西ドイツ(当時)で式を挙げ、新婚旅行にも行ったそうです。
しかし、2022年12月に夫・吉田喜重さんの体調が急変し救急車で病院へ向かいますが、そのまま帰らぬ人となってしまったようです。死因は肺炎だったそうです。岡田茉莉子さんは、「本当に彼は才能ある人で、素晴らしい監督でした」と言葉を贈っています。
ギモンくん岡田茉莉子さんは、どうして吉田喜重さんをスカウトしたのかな?
カイケツさん吉田喜重さんが27歳の時にデビュー作として書いた、『ろくでなし』の台本を読んで「底知れない才能が出てきた」と感嘆したのがきっかけのようよ!
【画像】岡田茉莉子は若い頃美人!
幼少期に無声映画スターの父・岡田時彦さんを亡くし、宝塚出身の母・田鶴園子さんのもとで育った岡田茉莉子さん。おだやかな物腰と端正な顔立ちは十代の頃から際立ち、東宝演技研究所に入所後わずか20日で『舞姫』の準主役に抜擢。以降は知性と気品を備えた美貌でスクリーンを席巻し、松竹時代には有馬稲子さんと「二枚看板」と称されました。
本記事では、初期の写真や当時の証言を交え、若き日の透明感とスターへ飛躍するまでの軌跡を一気にたどります。
幼少期・10代(1933年~1953年)
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岡田茉莉子さんは、戦前の無声映画で活躍した二枚目俳優の岡田時彦さんと、宝塚歌劇団卒業生で歌役をつとめた田鶴園子さんの間に生まれました。
岡田茉莉子さんが生まれた翌年、父である岡田時彦さんは結核で亡くなり、その後は母・田鶴園子さんと2人で過ごしてきました。幼少期は病弱だったこともあり、おとなしい性格だったそうです。
上の画像は0歳のころの岡田茉莉子さんと岡田時彦さんを写したものです。岡田時彦さんの表情に愛情を感じますね!
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岡田茉莉子さんの母・田鶴園子さん1938年(茉莉子さん当時5歳)から中国・上海でダンス教師をしており、茉莉子さんとは離れて暮らすことになりました。
その間、田鶴園子さんの実家で過ごしていた岡田茉莉子さんですが、祖父が亡くなり、母親のいる上海に転居します。ですが海外の暮らしに馴染めず、単身帰国して、東京都品川区の公立小学校に通います。
その後、岡田茉莉子さんは2度の集団疎開を経験しています。
そして、高校時代には演劇部に入部し、友人と映画館で映画『朧の白糸』を観た日、帰宅後、母にそのことを伝えると、母が泣き出し、同作の主演俳優である岡田時彦さんが自分の父であることを知らされたそうです。
この当時のことについて岡田茉莉子さんは、「父」の顔をもう一度見るため、そして、「父」としてその演技をもう一度確認するために翌日、再び映画館を訪れたとお話しされていました。
岡田茉莉子さんは、1951年(当時18歳)の時に、東宝ニューフェースの第3期生として東宝演技研究所に入所しました。入所して20日後、映画『舞姫』の準主役に抜擢されて女優デビューを果たします。
この当時のことについて岡田茉莉子さんは以下のようにコメントしています。
「私は撮影所に行くのが憂鬱で、この1本に出たらもうここに来なくてすむと、毎日自分に言い聞かせていました。ところが撮影が終わる頃には、次の作品が決まっており――そこで、覚悟を決めたのです。これからは人見知りで内気な田中鞠子を封印し、意志の力で《女優・岡田茉莉子》を演じよう、と。」
引用元:婦人公論
上の画像は『舞姫』の写真です。とてもきれいな顔立ちをされていますね!デビュー作で準主役という重圧も大きかったと思われますが、そんなことも感じさせない表情です。
ギモンくん岡田茉莉子さんの芸名はどのように決まったのかな?
カイケツさん作家の谷崎潤一郎さんが「お父さんの芸名をつけたのだから君の名前も私がつけましょう」と言ってつけてもらったそうよ!
漢字はいくつかもらった選択肢から岡田茉莉子さんが選んだみたい。
20代(1953年~1963年)

岡田茉莉子さんは、1957年3月(当時24歳)の時に、フリーとなり同年9月に松竹エンタテインメントと専属契約をしました。松竹では様々なメロドラマへ出演し、有馬稲子さんとともに松竹エンタテインメントの2枚看板として大活躍しました。
この時岡田茉莉子さんが東映を離れたのは、映画スターとしての自分を意識し、自らの手で道を切り開こうとする現れだったようです。東映ではインパクトが強く、奔放で気が強い女の役ばかり与えられており、そのイメージから脱却すべく撮影所長室に直談判へ行ったそうです。
上の画像は松竹エンタテインメントへ移動してから出演した映画『土砂降り』の時のものです。色っぽさが画像からもわかりますよね。
画報近代映画 昭和35年11月号「希望対談~お互いに頑張りましょう」/小津安二郎監督作品『秋日和』で初共演をはたした司葉子さんと岡田茉莉子さんの撮影合間のお喋り。小津作品に初参加する喜び、小津組の独特の雰囲気等についてが語られる。 pic.twitter.com/MExRV15afh
— 島倉千代菊 (@wataridori333) April 18, 2021
岡田茉莉子さんは、1960年(当時27歳)の時に、父の盟友であった小津安二郎さんの監督映画『秋日和』に出演しました。それ以降、当時の名監督たちの作品に複数出演しました。上の画像は撮影合間の取材の時のものです。
この映画は、娘の結婚と母の再婚を巡ったいざこざをユーモラスに描いた作品です。また、岡田茉莉子さんは、「小津監督は父のことを『あんな名優は2度と出ない』とまで言ってくださいました。それ以来、岡田時彦は私の目標であり、ライバルとなったのです」と語っています。父の背中を追いかけた女優人生ともいえるのですね。
岡田茉莉子さんは、1962年(当時29歳)の時に、映画出演100本記念作品として映画『秋津温泉』で主役を務めました。この作品では、岡田茉莉子さん自身が企画し、監督、キャストを決めて良いが、プロデューサーとして予算も含めて全責任を持つという条件が課せられていました。
上の画像は映画のワンシーンです。岡田茉莉子さんは旅館の娘を演じました。
岡田茉莉子さんは、少女時代から読書家であり、藤原審爾さんの小説『秋津温泉』について、「初めてこの小説を読んだ時から、いつか映画化できたらと心の中で温めていた」とお話しされており、思い入れのある作品であったことが伺えます。
その後、吉田喜重さんに監督をお願いし1度は断られたものの、直接の説得の甲斐あって引き受けてもらえたそうです。結果、『秋津温泉』は大ヒットし毎日映画コンクール女優主演賞など様々な賞を受賞しました。
しかし、岡田茉莉子さんは受賞の祝賀パーティーで引退を表明しようと思っていたそうです。女優として10年のキャリアと、今作で数々の賞を受賞したことで満足し女優引退を決意したのだとか。
ですが、その場に居合わせた吉田喜重さんの「あなたは青春をすべて映画に捧げてきました。辞めてしまってはもったいないとは思いませんか?」という言葉で、あっさり引退の表明をやめたそうです。
ギモンくん当時、岡田茉莉子さんがプロデュースした作品は、『秋津温泉』だけ
だったのかな?
カイケツさん『秋津温泉』は2作目みたいよ!
1作目は『熱愛者』という作品だったみたい。でも、100%満足はできていなかったから捲土重来を望んでいたとお話ししているわ。
30代(1963年~1973年)
岡田茉莉子さんは、1963年(当時30歳)の時に、吉田喜重さんと婚約を発表しました。
その後岡田さんは、松竹とは1965年(当時32歳)に2本のみの本数契約として、事実上フリーになりました。翌年(当時33歳)の時に夫である吉田喜重さんと独立プロダクションである「現代映画社」を創立し、映画『女のみづうみ』を発表しました。
上の画像は1965年の『女のみづうみ』でのワンシーンと1966年(当時33歳)の時のものです。『女のみづうみ』では自身の裸体が映ったフィルムが暴漢に奪われ、見知らぬ男から脅迫を受け、いわれるがままに旅に出る人妻の不安をうまく描いています。
「現代映画社」では、岡田茉莉子さんを主役に11本もの人間の深部に迫る、前衛的で独自の映像世界を追求する知的な映画を創作していきました。
映画『女のみづうみ』もそのうちの1本で、川端康成さんの長編小説『みづうみ』をベースに「水で書かれた物語」を制作した石堂淑郎さん、吉田喜重さん、大野靖子さんが共同で脚色した作品です。
「エロス+虐殺」吉田喜重監督(現代映画社1970年)
— かねぴ。 (@KanenoAtsushi) February 13, 2018
出演:細川俊之、岡田茉莉子ほか
音楽:一柳慧+エイプリルフール
SIDE A
1.メイン・テーマ(1)
2.尺八とプリペアード・ピアノ
3.メイン・テーマ(2)
SIDE B
1.ジャズ・ロック
48年ぶりの7インチ再発、4月11日発売 pic.twitter.com/chkBwc4Uy2
エロス+虐殺1970吉田喜重、岡田茉莉子と文学座とATG
— kumakumasan (@kuma06140614) February 20, 2023
音楽一柳慧
若き原田大二郎の長台詞
伊丹十三のお葬式のブランコはこれか!
額入り障子の和風スプリットスクリーン
もうこういう迷宮のような日本家屋はないんだろうな
自由恋愛のメロドラマ
新宿淀橋浄水場の素敵な映像
モダニズムな絵面
グロなし pic.twitter.com/dhUmJKAUPo
岡田茉莉子さんは、1970年(当時37歳)の時に、映画『エロス+虐殺』に出演しました。岡田さんは、関東大震災の直後、三角関係のもつれから大杉栄さんとともに刺され、わずか28歳で亡くなってしまった伊藤野枝さんを演じました。
本作は、吉田喜重さんの最高傑作ともいわれた作品で、1916年に実際に起きた殺傷事件、日蔭茶屋事件を題材にしたフィクションでした。
1970年代以降、映画が斜陽になっていきましたが、岡田茉莉子さんは映画出演を続けました。この頃のについて、岡田茉莉子さんは「私は黄金期の最後の光芒を経験できました。」と語っています。
ギモンくん日蔭茶屋事件ってどんな事件だったのかな?
カイケツさん思想家で社会運動家の大杉栄さんが、旅館「日陰茶屋」において不倫相手である伊藤野枝さんと密会を重ねていたの。
そのことに嫉妬したもう1人の不倫相手である新聞記者の神近市子に首を刺された事件みたいよ!
40代以上(1973年~)
引用元:X
岡田茉莉子さんは、1977年(当時44歳)の時に、映画『人間の証明』に出演しました。上の画像は映画のワンシーンです。この映画は現代映画社の製作ではない作品です。
この当時のことについて岡田茉莉子さんは、「私がよその映画やドラマに出演し、そのギャランティも製作費に回す。このやり方で、私たちは一度もお金を借りずに映画を撮り続けることができました。これは私の誇りです」とお話しされており、吉田喜重さんの製作を全力で支えていたことが確認できます。
岡田さんは本作でヒロインをほりの深い演技で痛切に演じました。

岡田茉莉子さんは、2009年(当時76歳)の時に、自伝『女優 岡田茉莉子』を出版しました。戦後の日本映画史を力強く生き抜いた岡田茉莉子さんの終わりなき物語が綴られた、600ページもの大作となっています。
この本を書き終えた岡田茉莉子さんは、「今は空虚ですね。からっぽです。全部書いてしまったという感じで、出すものは全部出しちゃったという感じです」とお話しされており、今まで通ってきた映画の歴史のすべてを詰め込んだことが確認できます。
上の画像は自伝『女優 岡田茉莉子』の表紙です。ハードカバー版の裏表紙は『エロス+虐殺』のワンシーンとなっているようです。
ギモンくん『女優 岡田茉莉子』にはどんな内容が書かれているのかな?
カイケツさん芸名の名付け親についてや、父の話、幼少期には生意気にみられていじめられていたことなど、岡田茉莉子さんが自身のことを赤裸々にかいているみたいよ!
岡田茉莉子のプロフィール・SNS

プロフィール
- 名前:岡田 茉莉子(おかだ まりこ)
- 本名:田中鞠子(たなか まりこ)
- 生年月日:1933年1月11日
- 年齢:92歳(2025年10月現在)
- 出身地:東京都
- 血液型:A型
- 趣味:旅行
- 特技:日舞 社交ダンス
- 所属事務所:フリー
受賞歴
毎日映画コンクール
- 1958年:女優助演賞 『悪女の季節』
- 1962年:女優主演賞『今年の恋』『秋津温泉』
キネマ旬報ベスト・テン
- 1962年:主演女優賞『今年の恋』『霧子の運命』
日本映画批評家大賞
- 1998年:ゴールデン・グローリー賞
ギモンくん岡田茉莉子さんはとてもスタイルが良いけれど、運動されているのかな?
カイケツさん吉田監督の生前は夫婦でスポーツジムでエアロビやジャズダンスに取り組んでいたそうよ!






