【画像】奥田瑛二と嫁との馴れ初めは?娘の職業は何?若い頃イケメン!

俳優・映画監督・画家として多彩に活躍する奥田瑛二さんは、1979年にエッセイストの安藤和津さんと結婚。出会いは苦境の時期に友人の誕生日パーティーで、タクシー同乗→翌日の喫茶店→実家での交流を経て、わずか8か月でゴールインというドラマのような経緯でした。のちに二人は「パートナー・オブ・ザ・イヤー2003」に選ばれるほど互いを尊重し合う関係として知られます。

娘は長女・安藤モモ子(映画監督/小説『0.5ミリ』原作・監督)と、次女・安藤サクラ(女優/『万引き家族』で主要映画賞を席巻)の芸能一家。奥田さん自身は『海と毒薬』『男女7人夏物語』などで存在感を確立し、監督としても『長い散歩』で三冠を達成。現在も自社「ゼロ・ピクチュアズ」で創作を続け、近年は映画『かくしごと』へ出演するなど第一線で輝き続けています。

本記事では〈馴れ初めの核心/娘二人の職業と代表作/若い頃のイケメン期とブレイク過程/監督としての足跡〉をまとめて解説します。

この記事でわかること

  • 奥田瑛二さんと安藤和津さんの出会い~8か月で結婚に至る具体的な流れ
  • 夫婦が「パートナー・オブ・ザ・イヤー2003」に選出された理由と評価ポイント
  • 長女・安藤モモ子(監督)/次女・安藤サクラ(女優)の職業と代表作
  • 若い頃のイケメン期:『円盤戦争バンキッド』~『海と毒薬』『男女7人夏物語』までの軌跡
  • 監督としての実績(『長い散歩』三冠など)と近年の出演作『かくしごと』のトピック
目次

【画像】奥田瑛二と嫁の馴れ初めは?娘の職業は何?

俳優・映画監督として活躍する奥田瑛二さんは、エッセイストの安藤和津さんと1979年に結婚しました。出会いは友人の誕生日パーティーで、最初は印象が悪かったものの、誠実な姿勢に惹かれ、交際をスタート。知り合ってわずか8か月で結婚に至りました。現在まで40年以上連れ添い、互いの個性を尊重し合う“理想の夫婦”として知られています。

また、娘の安藤モモ子さんは映画監督・作家として、次女の安藤サクラさんは女優として第一線で活躍しており、まさに“芸能一家”として注目を集めています。

奥田瑛二と嫁の馴れ初めは?

奥田瑛二さんは、1979年(当時29歳)の時に、エッセイストの安藤和津さんと結婚しました。

奥田瑛二さん
引用元:スポニチ


出会いは、ホームレス時代に友人に誘われた誕生日パーティーでした。最初は、「あなたはサンマの腐った目をしている」と振られてしまいました。しかし、奥田瑛二さんは、帰りにタクシーに一緒に乗せてほしいと頼み、次の日に喫茶店で会う約束をしたそうです。それから二人は毎日会うようになりました。

結婚を決定づけたのは、安藤和津さんの自宅で麻雀をしている最中に倒れたことでした。倒れた原因となった歯の毒が脳に回ってしまう前に、抜歯をすることとなりました。

施術の後、安藤和津さんは行くあてのなかった奥田瑛二さんをおうちに住ませていました。一緒に生活していく中で安藤和津さんの母のすすめもあり、知り合って8か月後には結婚式を挙げることになりました。

奥田瑛二さん
引用元:NEWSポストセブン

お二人は、パートナー・オブ・ザ・イヤー2003に選ばれました。お互いを尊重しあい、ともに成長されている理想に2人として紹介されました。「知的で大人のカップル」や「それぞれの才能や個性がうまく調和されているご夫婦」という声で投票されました。

けん

奥田瑛二さんは、どうして安藤和津さんの自宅で麻雀をしていたのかな?

のぞみ

始めは、奥田瑛二さんを紹介するために安藤和津さんの母が好きな麻雀をしながらお話をしたらしいわ!その時「正直な人だ」と気に入られ、よく自宅に誘われていたみたいよ

奥田瑛二の娘の職業は何?

奥田瑛二さんの娘、長女は安藤桃子さんです。安藤桃子さんは、安藤モモ子という名義で映画監督として活動しています。高校時代からイギリスに留学していました。また、小説『0.5ミリ』を出版し作家としてもデビューしました。また、この小説は自身で監督をつとめ、映画化しています。

安藤桃子さん
引用元:LIFE

安藤桃子さんが映画監督になると決めたのは、奥田瑛二さんが監督を務めた『少女』の現場に美術スタッフとして入ったことがきっかけだそうです。

安藤サクラさん
引用元:映画ナタリー

奥田瑛二さんの娘、次女は安藤サクラさんです。安藤サクラさんは女優として活動しています。

2007年に奥田瑛二さんが監督を務めた映画『風の外側』で主演を務め本格的にデビューしました。これ以降様々な作品に出演しています。2018年公開の『万引き家族』では、最優秀主演女優賞など映画賞を総なめしました。

安藤モモ子さんが監督を務めた『0.5ミリ』にも出演しています。

けん

奥田瑛二さんは、娘たちの活躍をどう思っているのかな?

のぞみ

出演作品はできる限り欠かさず観て、元気をもらっているといっているわ!

【画像】奥田瑛二は若い頃イケメン!

奥田瑛二さんは20代で特撮『円盤戦争バンキッド』の主役としてデビューし、29歳で映画初主演。30代には『男女7人夏物語』で大人の色気と端正なルックスが話題となり、『海と毒薬』で主演男優賞を受賞しました。『もう頬づえはつかない』など話題作に次々と抜擢され、若い頃から長身と彫りの深い顔立ち、鋭い眼差しが放つ色気で“昭和イケメン”の象徴的存在と言われています。

20代(1970年~1980年)

奥田瑛二さんは、昔から俳優になりたいという夢を持っていました。議員であった父には猛反対され、「政治の勉強をするため」とうそをついて上京したようです。

当てもなかったのでしばらくは夜の世界で働き、俳優につながるかもしれないという理由でモデルのお仕事もされていました。しかし、自分の目標はあくまでも俳優だ、とモデルの仕事はやめたそうです。

引用元:X(エックス)

そんな中、1976年(当時26歳)の時に、特撮テレビ番組である『円盤戦争バンキッド』で主人公を務めデビューしました。しかし、この番組は子供向けで奥田瑛二さんの目指す大人向けのドラマではなかった為、満足いくものではありませんでした。その後、ドラマのオーディションには全く受からず、焦燥感が募っていたことを明かしています。

上の画像は『円盤戦争バンキッド』のワンシーンのものです。しゅっとしたお顔ですね。

奥田英二さん
引用元:amazon

奥田瑛二さんは、努力の甲斐があって、1979年(当時29歳)の時に、映画『もっとになやかにもっとしたたかに』にで映画初主演を務めることとなります。実はこの前段で奥田瑛二さんは、事務所はクビになりかけていたそうです。

クビになりそうだった理由は定かではありませんが、事務所でたまたま目を通した台本で「この主人公は自分がやるべきだと思い」、映画の監督に手紙を書いたそうです。そのかいあって主演への抜擢となりました。

上の画像はDVD『もっとになやかにもっとしたたかに』の表紙のものです。奥田瑛二さんは、宅配業者として働き、既婚者で息子もいるがわけあって一人暮らしをしている高木勇一を演じました。

奥田瑛二さん
引用元:YAHOO!オーディション

奥田瑛二さんは、1979年(当時29歳)の『もっとしなやかに、もっとしたたかに』で実力を認められ、同年、映画『もう頬づえはつかない』に出演しました。

この映画は当初、主演の男女二人は新人でいくつもりですでに男性は決まっていました。しかし、桃井かおりさんが相手役と決まった時に、監督が釣り合いを考えて主演を奥田瑛二さんに変えたそうです。

この時の桃井かおりさんは日本アカデミー賞助演女優賞を受賞するほどの大物女優だったので、奥田さんもこの時点でかなりスペック高い俳優として認識されていたのでしょう。

上の画像は『もう頬づえはつかない』のワンシーンのものです。奥田瑛二さんは、バイト仲間であった主人公と体の関係を持つようになっていく橋本を演じました。

奥田瑛二さんは、『もっとしなやかに、もっとしたたかに』と『もう頬づえはつかない』への出演をきっかけに次々とオファーが来るようになります。

けん

奥田瑛二さんは、どうして俳優になりたいと思ったのかな?

のぞみ

小学5年生の時に『丹下左膳』を観て衝撃を受けて「あのスクリーンの中で輝きたい」と考えるようになったそうよ!

30代(1980年~1990年)

奥田瑛二さんは、1981年(当時31歳)の時に、銀河テレビ小説 『愛・信じたく候』に出演しました。

奥田瑛二さん
引用元:NHKアーカイブス

この時奥田瑛二さんは、「撮影が始まるとすべてのシチュエーションで啄木のロマンチシズム、資質、短歌作家としての人生観が自分の中に入り込んでくる」とお話しされており、役に入り込んでいたことがわかります。


役に入り込んでしまうあまり、出演料を一切家に入れなかったこともあり、奥さんからは「あなたはいつも役と同化してしまっている」や、「家族はそのたびにジェットコースターに乗せられているよう」と言われてしまったこともあるようです。

上の画像は『愛・信じたく候』のワンシーンのものです。

奥田瑛二さん
引用元:TBSチャンネル

奥田瑛二さんは、1986年(当時36歳)の時に、トレンディドラマの元祖であるともいわれるテレビドラマ『男女7人夏物語』に出演しました。

この当時のことについて奥田瑛二さんは、俳優としてのプライドがあったため芸人である明石家さんまさんが混じっていることを理由に一度はオファーを断ったそうです。

全体練習で初めて台本を読むレベルであった明石家さんまさんに始めは嫌な印象を持っっていたと語っています。しかし、本番になるとアドリブ連発でもきちんと物語の意図にあっていて、感心へとった変化していったといいます。

そのことに対抗心を燃やした奥田瑛二さんは、2話以降の撮影はセリフは一切覚えずアドリブで撮影を進めました。
最終的には明石家さんまさんを認めていたのですね!これを機に、明石家さんまさんとは仲良くなったそうです。

上の画像は『男女7人夏物語』の紹介画像のものです。このころ出演したドラマの影響で多くの女性ファンを獲得しました。

奥田瑛二さん
引用元:U-NEXT

奥田瑛二さんは、同じく1986年(当時36歳)の時に、『海と毒薬』で映画初主演を務めました。太平洋戦争末期が舞台となっており全編白黒作品となっています。

この時奥田瑛二さんは、この映画で毎日映画コンクール男優主演賞などを獲得しました。また、これ以降この作品の監督である熊井啓さんの作品に立て続けに出演しました。

奥田瑛二さんは熊井啓さんとの出会いについて映画という道の「最初のベースとなり、とても中身の濃い時間でした」と語っています。

上の画像は『海と毒薬』の紹介画像のものです。今までと比べてさっぱりとしてとてもかっこいいですね!

奥田瑛二さん
引用元:Amazon

奥田瑛二さんは、1989年(当時39歳)時に、熊井啓さんが監督を務める映画『千利休 本覺坊遺文』に出演しました。この作品は、第46回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞しました。

この時奥田瑛二さんは、役が決まってから、1年間自ら丸坊主にして着物で生活していたそうです。監督からクランクインの一か月前にお茶を習ってほしいといわれた際は、一度断ったそうです。しかし、それでもとお願いされお屋敷に行きました。通しでやってみた段階で「もう続けなくていいです」と言われたそうです。

上の画像は『千利休 本覺坊遺文』のパッケージのものです。丸坊主にして、またイメージが大きく変わりましたね。

けん

奥田瑛二さんは、どうしてお茶を習うのを断ったのかな?

のぞみ

自ら丸坊主にして着物で生活しているときに、マンツーマンで作動も習っていたからみたいよ!徹底的に役になりきる準備をしているのね。

40代以上(1990年~)

奥田瑛二さんは、1993年(当時43歳)の時に、映画『棒の悲しみ』に主演として出演しました。この映画は、組長に対して不満を持った一人のやくざの生きざまを描いています。ブルーリボン賞など国内の映画賞を多数受賞しました。

奥田瑛二さん
引用元:ナタリー

この映画に出演している奥田瑛二さんについて、「奥田瑛二さんの存在感がすごい」や「かっこいい」という声がいくつかみられました。アウトローな役も難なく演じられるというところで注目されました。そして、この映画以降50本以上の映画に出演しています。

上の画像は『棒の悲しみ』のDVDの裏表紙のものです。この映画では、奥田瑛二さんはヤクザを演じました。自分の傷口を自分で縫うというシーンもあるそうです。

引用元:X(エックス)

奥田瑛二さんは、2001年(当時50歳)の時に、映画『少女〜AN ADOLESCENT』で監督デビューをしました。この時、

この時奥田瑛二さんは、42歳の時に「よし、監督やるぞ!」と思い立ち、周囲に宣言していたそうです。一度は自身を持つことができずに挫折しましたが、基礎から映画製作を学び、48歳で助監督を経験しました。40代で新しいことに挑戦する姿がとても素敵ですね!

上の画像は『少女〜AN ADOLESCENT』の撮影の様子です。奥田瑛二さんは、自身が俳優も務めました。
この時、中学生少女と恋愛をしていく、モラルの欠如した中年警官を演じました。

奥田瑛二さん
引用元:碧南市芸術文化ホール

奥田瑛二さんは、2006年(当時56歳)の時に、映画『長い散歩』で監督を務めました。この映画は、モントリオール世界映画祭でグランプリ、国際批評家連盟賞、エキュメニック賞の三冠を受賞しました。

この作品は、妻を亡くした初老の男性と、残酷な境遇で育った5歳の少女の旅を描いています。奥田瑛二さんは、「“真実の愛”が私の映画作りにおける一貫したテーマ。乾いた世の中に染み込む一滴の水、そんな作品を撮りたいと思った」とお話しされており、つらい環境で見つけられる愛に焦点を置いていることがわかります。

上の画像は『長い散歩』の映画上映会&トークショーのチラシのものです。キャッチコピーは「人生は長い散歩 愛がなければあるけない」でした。

奥田瑛二さん
引用元:NEWSポストセブン

奥田瑛二さんは、2024年(当時74歳)の時に、映画『かくしごと』に出演しました。

この時奥田瑛二さんは、「監督の熱のこもった依頼に、すぐに『やろう』と返事をしました」とお話しされています。監督を務める関根光才さんは、2019年の映画『洗骨』での奥田瑛二さんのリアルを求める演技に心を打たれ、オファーをしたようです。

上の画像は『かくしごと』でのインタビューを受けている時のものです。
奥田瑛二さんは認知症の老人を演じました。俳優として役になりきっていることについて、「羞恥心、プライドはゼロ。ただ自尊心だけは持っている」と語りました。

けん

奥田瑛二さんは、どこかの会社に所属して監督をしているのかな?

のぞみ

1998年に株式会社ゼロ・ピクチュアズを設立し、監督の仕事をしているわ!大手から声がかかっても、「好きにできない」という理由で受けていないみたい。

奥田瑛二のプロフィール・SNS

  • 名前:奥田瑛二(おくだ えいじ)
  • 本名: 安藤豊明
  • 生年月日:1950年3月18日
  • 年齢:75歳(2025年11月現在)
  • 出身地:愛知県
  • 血液型:AB型
  • 趣味:俳句
  • 特技:ギター、ブルースハープ、挿絵、絵画
  • 所属事務所:ゼロ・ピクチュアズ
奥田瑛二さん
引用元:zero pictures

SNS

けん

奥田瑛二さんの趣味の俳句はどんなことをしているのかな?

のぞみ

20年以上の歴があるらしいわ!俳句の選者として、週刊誌の連載もしていたそうよ。

奥田瑛二の馴れ初め・娘の職業と若い頃の活躍まとめ

  • 1979年にエッセイストの安藤和津と結婚
  • 出会いは友人の誕生日パーティーでタクシー同乗から喫茶店で再会へ発展
  • 安藤家での交流を重ね母の勧めもあり知り合って8か月で挙式
  • 夫婦はパートナー・オブ・ザ・イヤー2003に選出され相互尊重の関係と評価される
  • 長女の安藤モモ子(安藤桃子)は映画監督で小説『0.5ミリ』を原作・監督
  • 『少女』の現場に美術スタッフで参加した経験が監督志望の契機とされる
  • 次女の安藤サクラは女優として活動
  • 2007年に映画『風の外側』で主演し本格的にデビュー
  • 2018年『万引き家族』で最優秀主演女優賞など主要映画賞を受賞
  • サクラはモモ子監督作『0.5ミリ』にも出演
  • 奥田は1976年『円盤戦争バンキッド』で主演デビュー
  • 1979年『もっとしなやかに、もっとしたたかに』で映画初主演
  • 同年『もう頬づえはつかない』出演で注目度を高める
  • 1986年『男女7人夏物語』でアドリブ主体の演技に挑戦
  • 1986年『海と毒薬』で主演し毎日映画コンクール男優主演賞を受賞
  • 1989年『千利休 本覺坊遺文』で丸坊主と和装生活など徹底した役作りを行い作品はヴェネツィア金獅子賞を受賞
  • 2001年『少女〜AN ADOLESCENT』で監督デビュー
  • 2006年『長い散歩』がモントリオール世界映画祭でグランプリほか三冠を獲得
  • 1998年設立のゼロ・ピクチュアズを拠点に自作主義で制作を継続
  • 2024年映画『かくしごと』に出演しリアルを追求する姿勢を示す
  • 総括として家族の活躍と自身の多彩な創作で現在も第一線を維持している
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