【画像】高木ブーの娘は現在何してる?奥さんが他界していた!若い頃からぽっちゃり!

ザ・ドリフターズのメンバーとして日本中を笑顔にしてきた高木ブーさん。その一人娘・かおるさんは、現在タレントやマネージャーとして父の芸能活動を支えています。1994年に母・喜代子さんを悪性脳腫瘍で亡くした後も、父を支え続ける存在として寄り添い、今では家族4人で穏やかに暮らしているそうです。

かおるさんはイベントのキャスティングや運営、プロモーションなど裏方としても活動しながら、自身もメディア出演を果たすなど、親子二代で芸能の世界を歩んでいます。若い頃から“ぽっちゃり体型”がトレードマークの高木さんは、その温厚な性格とユーモアで今も多くの人に愛され続けています。

家族愛と音楽愛に満ちた人生を送りながら、現在もウクレレを手にステージに立ち続けるその姿は、多くのファンにとって希望の象徴となっています。

この記事でわかること

  • 高木ブーさんの娘・かおるさんの現在の活動内容
  • 最愛の妻・喜代子さんの死因と夫婦の絆
  • 高木ブーさんの若い頃からの“ぽっちゃり”エピソード
  • 音楽と家族に支えられた人生の歩み
  • 親子二代で続く芸能活動と現在の暮らし
目次

【画像】高木ブーの娘は現在何してる?

1963年(当時29歳)、高木ブーさんと妻・喜代子さんの間に一人娘のかおるさんが誕生しました。生まれたての娘を病院で目にした高木さんは、「嬉しかったし感激したけど、『俺も父親になったぞー!』みたいな感じはなかったかな」と、当時の素直な気持ちを振り返ります。

妻からは「お父さんは、本当は男の子が欲しかったらしいわよ」と言われたそうですが、実際に生まれてきた我が子を見たら、性別は関係なく「無事に産まれてきてくれてホッとした」と、父親としての安堵と喜びを覚えたといいます。

高木ブーさんと娘さん
引用元:介護ポストセブン

高木ブーさんの最愛の妻が他界した後も、娘のかおるさんは、父を支える大切な存在です。

高木家は現在、娘さん夫婦と孫との4人暮らしで、高木さんにとってストレスとは無縁の幸せな毎日だといいます。そして現在、高木ブーさんの娘さんは、たかぎかおるとして父の仕事にも深く関わっています。

高木ブーさん
引用元:介護ポストセブン

具体的には、キャスティング業務や、父・高木ブーさんのイベントプロモーション、そして自身もタレント活動を行うなど、様々な形で父親の芸能活動を支え、共に歩んでいます。これは、高木ブーさんの芸能人としての「顔」だけでなく、「家族」としての深い絆と信頼関係があるからこそできる活動と言えるでしょう。

親子二代にわたって芸能界に携わりながら、互いを支え合う姿は、高木家の温かい絆の象徴となっています。

けん

週刊誌に「高木ブーには隠し子がいる」って話題になったことがあるみたいだね。

のぞみ

うん。家族のプライバシーを尊重していた「聞かれてないから答えなかっただけ」という高木ブーさんの穏やかな姿勢から、週刊誌に「隠し子がいる」と報じられたことがあるみたい。

実際は娘さんの存在を隠していたわけではなく、後に娘さんのかおるさんの七五三が芸能週刊誌に取材されるほど公になっていったそうよ!

高木ブーの奥さんが他界していた!死因はなに?

長きにわたり、穏やかな笑顔で多くの人々を癒やしてきた高木ブーさん。しかし、その人生には、かけがえのない存在との突然の別れという、計り知れない悲しみが存在しました。

高木ブー夫妻
引用元:介護ポストセブン

高木さんは「人生でいちばんつらかったのは、最愛の妻が亡くなったとき」と、今もその時の胸の内を語っています。高木ブーさんの最愛の妻、喜代子さんが亡くなられたのは、1994年3月25日、58歳という若さでした。

死因は悪性の脳腫瘍で、遡ること1992年の春頃から妻は頭痛や吐き気を訴え始め、当初は更年期障害と思われていましたが、後に病院でのCT検査で判明した際には、すでに手遅れの状態で、医師からは「あと5年の命」と宣告されていました。

高木ブーファミリー
引用元:介護ポストセブン

この時、高木さんは、あまりにも突然の妻との別れに、深い悲しみと衝撃を受けました。多忙な日々の中、陰で彼を支え、洋裁の内職で家計を支えてくれた妻は、高木さんにとってかけがえのない存在でした。

娘さんを残しての突然の死は、彼の心に大きな傷を残します。しかし、深い悲しみの中、高木さんを支えたのは、仕事と仲間たちでした。妻が重い病と闘っていた時も、『ドリフ大爆笑』の収録に毎日病院に寄ってから向かい、仕事で忙しくすることで何とか自分を保つことができたと語っています。

学生時代の仲間が「ブーちゃん、寂しくしてるんだったら、また一緒にハワイアンやろうよ」と声をかけてくれたり、ドリフの仲間たちやスタッフが言葉には出さずとも「気づかってくれているのがひしひしと伝わってきた」と、感謝の念を述べています。

高木さんは妻の死後も、時折自宅の中で喜代子さんの気配を感じるといいます。娘さんも同じように感じるそうで、高木家は目に見えない形で「5人家族」なのだと信じています。肉体は失われても、最愛の妻との絆は永遠に続いているのです。

けん

高木ブーさんと奥さんの馴れ初めは?

のぞみ

それは、高木ブーさんが、一般人だった(眼科の秘書だった)後に妻となる女性と出会ったのは、知人が主催したダンスパーティーでのことだったみたいよ。

スラっとしたスタイルにモダンな雰囲気を持つ彼女に高木さんは一目惚れし、交際を始めたと言います。

奥様の実家は由緒ある家柄だったため、不安定なバンドマンである高木さんとの結婚には、当初、相手の母親から猛反対を受けたそう。

しかし、奥様の祖母が「職業に貴賤(きせん)はないよ」と鶴の一声を発したことで、結婚の許可が下りたみたい。

そして、1962年2月1日(高木さん28歳、妻25歳)に二人は結婚し、2年後には一人娘が誕生したの。

高木さんの無名時代には、洋裁が得意だった奥様が内職をして家計を支えるなど、夫の夢を陰で支え続けた献身的な妻だったみたいよ!

【画像】高木ブーは若い頃からぽっちゃり!

高木ブーさんは「若い頃からずっとぽっちゃり」です。戦中の幼少期~10代の写真でも丸みのある頬と体つきが目立ち、ふくよかな印象は早くから一貫しています。

高校~大学でウクレレに打ち込みプロを志して以降も体型は大きく変わらず、のちにドリフ加入後はその温和な雰囲気とふくよかな体型が“癒し”の個性として確立しています。

芸名「ブー」も体格由来で定着し、名物の「雷様」でも存在感を発揮。若い頃からのぽっちゃり体型こそ、高木さんの親しみやすさとキャラクターを支え続けた核と言えるでしょう。

10代(1943年~1953年)

高木ブーさんの10代は、戦争という困難な時代を乗り越え、高木さんが音楽という「光」を見出した、まさに人生の転換期でした。この時期に偶然出会ったウクレレが、高木さんの穏やかな人生に新たな情熱と、かけがえのない出会いをもたらします。

高木ブーさんは1933年(昭和8年、当時0歳)の時に、東京都豊島区巣鴨で、6人きょうだいの末っ子として生まれました。この時、高木さんは、親御さんから深く愛情を注がれた穏やかな幼少期を過ごしていました。

高木ブーさん
引用元:介護ポストセブン

住んでいたのは、父親が勤めていた会社の隣にあった社宅で、敷地には松の木と池があり、当時はまだ珍しかったポータブルプレーヤーでジャズのレコードを聴き、「何だこれ!」と刺激を受けるなど、幼い頃から音楽に触れる機会がありました。

上の兄がタップダンス、二人の姉が日本舞踊や社交ダンスをたしなむなど、家族全体が芸術や文化に開かれた「けっこうハイカラな家だった」と語っています。

休日には家族でチャンバラ映画を観に行ったり、父親と縁日に行ったりと、幸せな日々を送っていました。しかし、そんな穏やかな日々は、戦争が激しくなるまでの話でした。3人の兄は次々と出征し、両親も防火訓練などで忙しくなっていきます。

集団疎開が始まる中、高木さんは「残留組」として巣鴨で両親と暮らし続けました。小学校では1学年4〜5クラスあったのに、6年生の時にはわずか1クラスだけになるほど、周囲の環境は厳しさを増していきました。

そして、1944年(当時11歳)の時に、城北大空襲(東京大空襲)で自宅が全焼し、その後千葉の柏へ引っ越しました。

上の画像は、幼少期の戦時中の時のものです。左側が高木さんです。幼少期は大変な日々を過ごしていたのでしょうが、この様な時でも高木さんはにっこり笑顔ですね。恐らく、ご家族の方々の支えになったと思います。

高木ブーさんのウクレレ
引用元:介護ポストセブン

高木ブーさんとウクレレのそもそもの出会いは、1948年(昭和23年、当時15歳)の高木さんの誕生日に訪れました。この時、高木さんは、3番目の兄から突然ウクレレをプレゼントされました。

兄は当時、大人気だった灰田勝彦さん・晴彦さん兄弟の”追っかけ”をするほどハワイアンに夢中だったそうですが、高木さん自身は「ねだったわけでもないし、楽器に興味があったわけでもない」と語っています。

後で理由を聞いても、兄は「なんでかな。俺もよくわからないんだ」と笑うばかりだったそうです。ウクレレを手にしても、弾き方さえ分からず、しばらくはほこりをかぶったままでした。

そんなある日、知り合いの増田進さんから「柏の夏祭りでハワイアンをやらないか」と誘われます。弾けもしないのに「やります」と答えたのは、「何となく流されて」しまう高木さんの人生観を表していたと言います。

ぶっつけ本番のステージで、覚えたてのコードをかき鳴らすと、客席の熱気に包まれ「気持ちよかったなあ」と、音楽で人を喜ばせる快感を初めて知ります。この夏祭りのステージこそが、高木さんを本格的にウクレレの道へと”引きずり込んだ”キッカケであったことが確認できます。

当時の高木ブーさんの画像はみつかりませんでした。上の画像は、野村義男さんからプレゼントされた高木ブーさん使用のウクレレののものです。ウクレレは50本以上所有しているそうですが、1本1本に大事な思い出が込められているのでしょうね。

高木ブーさん
引用元:介護ポストセブン

高木ブーさんが高校に入り、ウクレレの腕前が上達し、大きな自信が芽生えていたところに高木さんの音楽人生に大きな影響を与える古川和彦君が転校してきました。

古川さんがウクレレを弾くと、その腕前は高木さんが「足元にも及ばない」と驚くほどで、古川君の兄が立教大学でウクレレをやっており、当時、慶應と立教がハワイアンバンドの名門だったことを知ります。それから高木さんと古川さんは意気投合し、南千住の古川さんの家に泊まり込み、ウクレレの練習に没頭しました。

当時は教則本がなかったため、二人はレコードを何度も聴きながら音を探す試行錯誤の日々で、上手な古川君が弾き方を見つけ、それを高木さんが教えてもらう形で共に上達していきました。

古川さんは高校生の頃から「プロになりたい」と語っており、その言葉通り、卒業後すぐに有名なハワイアンバンドの一員となりました。高木さんは、ライバルに先を越されたにもかかわらず「悔しいとはぜんぜん思わなかったな。ちゃんと腕前を評価してもらえてよかったって、僕も嬉しかった」と、古川さんの活躍を心から喜んだそうです。

高木さんは今でも、ウクレレを手にすると、このかけがえのない友人である古川和彦さんのことを思い出すと語ります。

この増田さんと古川さんについて「長生きしている僕が、ふたりの分までがんばって弾き続けなきゃね」とお話ししており、古川さんの存在が、高木さんの音楽の原点であり、現在の活動を支える大切な一部であることが確認できます。

上の画像は、高木ブーさんの高校生時代の時のものです。彫りが深いイケメンに見えますね。

けん

高木ブーさんの人生の恩人とは、どんな人たちかな?

のぞみ

ひとりは、言わずと知れたザ・ドリフターズのリーダー、いかりや長介さんです。

高木さんは「ほかのバンドにいた僕に、長さんが『ザ・ドリフターズに来ないかと言ってくれなかったら、『高木ブー』は生まれてないし、この歳まで仕事をやれてないよね」と語っており、ドリフ加入が彼のキャリアを決定づけたことがわかります。

そして残りのふたりは、10代の頃にウクレレの魅力と奥深さを教えてくれた人たちです。

具体的には、彼を初めてハワイアンバンドのステージに誘った増田進さんと、そしてウクレレの腕前で高木さんの「足元にも及ばない」とまで言わしめ、共に練習に没頭した盟友、古川和彦さんを指します。

彼らとの出会いが、高木さんの音楽への情熱を本格的に開花させ、その後の人生を方向づける大切なきっかけとなったみたいよ!

20代(1953年~1963年)

高木ブーさんの20代は、学生時代から音楽への情熱を燃やし、やがて安定した未来を捨ててプロの道へと踏み出した、彼のキャリアにとって重要な転換期でした。

大学卒業後、プロの音楽家として新たな一歩を踏み出した高木ブーさんの20代は、ハワイアンバンドの一員として、国内のみならず海外へも活動の場を広げ、音楽家としての腕を磨き続けた研鑽の日々だったのです。

高木ブーさんは、中央大学の経済学部に入学してすぐ音楽研究会(音研)に入って、とにかく音楽ばかりやっていたそうです。ちょうどこの頃は、ハワイアンが全盛期で、高木さんは学内の名門バンド”ルナハワイアン”でレギュラーを目指し、ウクレレの練習に没頭します。

1学年上の先輩には、後にクレージーキャッツで活躍するトロンボーンの谷啓さんもおり、一流の環境で腕を磨きました。

1953年(当時20歳)頃に高木さんは、父親が手配してくれた東京ガスへの就職を断り、「安定よりも、自分の好きなことをやってみたい」という強い思いを胸にプロのミュージシャンとして生きていくことを決意します。

当時、しゃれた居酒屋やハワイアンズ協会からの仕事が豊富にあり、「飯を食うには困らない時代だった」と振り返るように、ハワイアンミュージシャンとしての将来性に確信があったのです。このことから高木ブーさんは、自身の”好き”を貫き、音楽の道へと本格的に足を踏み入れたことが確認できます。

当時の画像はみつかりませんでしたが、これらの記事で当時の高木さんの「熱意」や「決意」を感じ取っていただければ幸いです。

高木ブーさん
高木ブーさん
引用元:介護ポストセブン

高木ブーさんは1954年頃(当時21歳頃)、プロとして活動するため「高木智之とハロナ・セレナーダス」を結成しました。本名の友之助から自ら「智之」と名乗り、新たな一歩を踏み出します。

※ピンポイントで「1954年に結成」ということは確認できませんでしたが、高木さんの人生の時系列から判断したものです。

この時、高木さんは、日本各地に駐留する米軍基地を巡る多忙な日々を送っていました。

所属事務所は、バンドやダンサー、マジシャンらを「お徳用詰め合わせ」としてキャンプに売り込み、高木さんたちは米軍のトラックで基地へ向かいました。集合場所では「拾い」と呼ばれる斡旋者が即席バンドを組む光景も見られ、闇市の名残が残る混沌とした中に、独特のエネルギーがあふれていたそうです。

さらに1950年代後半(当時20代半ば)頃には、軍用機に乗って台湾、フィリピン、返還前の沖縄を巡る「ワールドツアー」にも何度か出かけたと言います。

旅客機ではないため揺れは激しく、座席の硬さでお尻が痛くなるほど過酷な移動で、海外の米軍キャンプでは約1ヶ月滞在し、連日ショータイムにゲスト出演したそうです。一般兵から将校まで、どのクラブでも観客のノリが良く、「演奏してて楽しかった」とお話ししており、充実したプロ活動の日々が確認できます。

上の1枚目の画像は、1954年頃(当時21歳頃)に「高木智之とハロナ・セレナーダス」を結成の時のものです。これがプロミュージシャンとしての第一歩時期なのですね。

2枚目の画像は、1950年代後半(当時20代半ば)頃に行った沖縄米軍キャンプ「キャンプ・ズケラン」を訪れた時のものです。ハワイアンバンドらしさが出ていますね。切磋琢磨しながら、結束力を強めて楽しく音楽活動をしていたように見えますね。

1959年頃(当時26歳頃)、高木ブーさんは、新たに自身で結成した「ニュー・フレッシュマン」というバンドを結成しました。しかし、あまりしっくりこず、迷いを感じており、1962年(当時29歳)の時にジェリー藤尾さんのバンドに加入しました。

その後、高木さんは「ロジェ滋野とシャドーズ」を結成しました。このバンドで、高木さんは後にザ・ドリフターズで共に活動することになる、仲本工事さんと出会うことになります。

この時、高木ブーさんは迷走の20代だったな。でも、すべてが貴重な経験だったし、毎日が刺激的で楽しかった。夢も希望もいっぱいだったしね。自分としては”いい20代を過ごしたな”と、充実した表情で満足感を表しています。

安定を捨て、プロの音楽家として苦難を経験しながらも、新たな出会いや挑戦が続き、彼の音楽家としての基盤を築く、かけがえのない10年間だったことが確認できます。

当時のバンドの画像はみつかりませんでしたが、音楽への情熱と迷走感は強く感じられますね。

高木ブーさん夫妻
高木ブーさんと娘さん
引用元:介護ポストセブン介護ポストセブン

1962年(当時28歳)に高木ブーさんはご結婚しました。お相手は当時25歳だった女性で、翌年の1963年(当時29歳)には一人娘が誕生しています。

高木ブーさんは、その穏やかな人柄と共に「愛妻家」としても有名で、70歳と90歳の記念に出版した2冊の自伝では妻との思い出を詳細に語っています。

ドリフターズのメンバーの中で、離婚も再婚もせず、複数の女性と関係を持つこともなく、ただ一人の女性と生涯を添い遂げたのは高木さんしかおらず、この事実から高木さんの妻への揺るぎない愛情が確認できます。

1枚目の画像は、1962年(当時28歳)の時に結婚された時のものです。お二人の雰囲気がとても似ていて良いカップルに見えます。

2枚目の画像は、1963年(当時29歳)の時に一人娘が誕生した時のものです。目元が高木さんそっくりですね。

けん

高木ブーさんのバンドは、どのように「高木智之とハロナ・リズム・コーラス」や「ニュー・フレッシュマン」へと変化していったのですか?

のぞみ

昭和30年代半ば頃、エルビス・プレスリーのロックンロールや、ダーク・ダックス、デューク・エイセスといったジャズ・コーラスが日本で人気を集め、音楽シーンは大きな変革期を迎えていたの。

この時代の変化に対応しようと、高木ブーさんのバンドも新しい試みに挑み、それまで活動していた高木智之とハロナ・セレナーダス」のメンバーを一部入れ替え、新たに「高木智之とハロナ・リズム・コーラス」として生まれ変わったそうよ。

高木さんはこの時期を「試行錯誤の時期だったな」と振り返っているわ。

しかし、しばらくすると、この「リズム・コーラス」にも物足りなさを感じるようになり、その頃、アメリカのコーラスグループ「フォー・フレッシュマン」が人気を集めており、そのカッコよさに惹かれた高木さんは、メンバーを一部入れ替えて「ニュー・フレッシュマン」を結成しましたの。

高木さん自身は「うーん、我ながら安易なネーミングだな」と語っているけど、当時の音楽トレンドを取り入れながら、常に新しい表現を追求していた高木さんの姿勢がうかがえるエピソードなのよね。

30代(1963年~1973年)

高木ブーさんは、ジェリー藤尾率いるバンド「パップ・コーンズ」ではバンジョーを、続く「シャドーズ」ではエレキギターを担当していました。

そんな中、1964年9月16日(当時31歳)、横浜のジャズ喫茶「ピーナッツ」での演奏中に、当時のドリフのリーダーでバンドオーナーだった桜井輝夫さんと、新リーダーのいかりや長介さんにスカウトされ、ピアニストの欠員補充としてザ・ドリフターズに参加しました。

この時、高木ブーさんは、自身がお笑いの世界に参入したことに戸惑いを覚えつつも、いかりや長介さんの熱意に動かされ、新たな挑戦の扉を開きました。

後に高木さんは「ほかのバンドにいた僕に、長さんが『ザ・ドリフターズに来ないか』と言ってくれなかったら、『高木ブー』は生まれてないし、この歳まで仕事やれてないよね」とお話しされており、いかりや長介さんの存在がいかに大きかったかが確認できます。

高木さんの加入は、当時のドリフターズが音楽バンドから本格的なコントグループへと進化していく、まさにその転換点でもありました。

ザ・ドリフターズに参加当時の画像は見つかりませんでしたが、ここからがコメディアンの幕開けなのですね。

高木ブーさん
引用元:介護ポストセブン

1969年(当時36歳)、『8時だョ!全員集合』が放送開始しました。

土曜日の夜8時に放送されたこの番組は最高視聴率50.5%という記録を叩き出して瞬く間に国民的な人気を博し、ザ・ドリフターズは日本中の老若男女を熱狂させる存在となりました。

高木ブーさんは、コントの中で他のメンバーが前面に出て笑いを取る中、いかりや長介の隣にいる人として、その穏やかな存在感で異彩を放っていました。

ボケでもツッコミでもない、独特の「間」と「空気感」が彼の最大の持ち味となり、観客や視聴者に安心感と癒しを与えました。「8時だョ!全員集合」は、番組のメインである前半コントに最も力を入れていました。

この時、高木さんは、毎週木曜日に行われるネタ会議は、リーダーいかりや長介さんが納得するまで終わらず、「午後3時から夜中まで続くこともざらだった」と言います。

高木さんは、そうやってギリギリまで粘ったからこそ、面白いものが作れたんだろうと、その徹底したネタ作りの重要性を語っています。

ドリフターズのコントの最大の武器は、高木さんいわく「5人いる」ことだと言います。落語や漫才にはない5人という人数、そしていかりや長介さんを「絶対権力者」とする明確な上下関係が、「弱い4人が強い1人に立ち向かう」という独特の基本パターンを生み出し、観客を惹きつけました。

メンバーそれぞれが「今、自分はどうすればいいか」を無意識に理解していた、まさにプロ集団だったと高木さんは振り返ります。

子ども時代に自身の役割が分からなかったという声にも、「子どもから見たらそうだよね。まあ僕自身も、当時は無意識にやっててあとで気がついたんだけど」と客観的にお話ししており、メンバーで試行錯誤しながらも、良い役割のチームワークで活動していたことが確認できます。

上の画像は時期は確認できませんでしたが、『8時だョ!全員集合』の放送が開始されたころのものです。当時は、土曜の8時は家族そろってお茶の間で楽しく見ていた家庭多かったようです。

けん

高木ブーさんを含むザ・ドリフターズのメンバーの名付け親は誰なのかな?

のぞみ

それは、高木ブーさんを含むザ・ドリフターズのメンバーの芸名の名付け親は、渡辺プロダクションの大先輩であり、クレージーキャッツのリーダーだったハナ肇さんなのよ。

ドリフに加入した高木さんは当初「高木智之」の芸名でしたが、皆からは「ブータン」と呼ばれていたの。

ある日、渡辺晋社長の家での集まりで、ハナ肇さんがドリフメンバーに「芸名はあるのか?」と問いかけ、その場で名付ける流れになったみたいよ。

いかりや長介(本名:碇矢長一)、加藤茶(本名:加藤英文、愛称そのまま)、仲本工事、荒井注と続き、最後に高木さんの番になって、ハナ肇さんは高木さんの体を見て「お前は『ブータン』って呼ばれてるのか。じゃあ、それでいいや」「ブーでいいんだよ」と命名したそう。

高木さんは当初「いくら太っているからって『ブー』はあんまりじゃないか」と思ったものの、活動するうちに「いい名前だ」と実感したと語り、この「ブー」という名前があったからこそ、多くの人に親しまれ、自然体で活動できたと今では名付け親のハナ肇さんに深く感謝しているみたいよ!

40代以上(1973年~)

高木ブーさんの40代以降は、ザ・ドリフターズの一員として『8時だョ!全員集合』で国民的スターとしての地位を確固たるものにし、その後『ドリフ大爆笑』で代名詞となる「雷様」キャラクターを誕生させた輝かしい時期でした。

しかし、その華々しい活躍の裏では、最愛の妻との突然の別れという深い悲しみにも直面します。この年代は、公私にわたる様々な経験が、彼の人生に深みと彩りを与えていきました。

引用元:ファミリー劇場

1985年(昭和60年、当時52歳、『8時だョ!全員集合』の終了後、フジテレビで放送された『ドリフ大爆笑』のコントの中で、高木ブーさんの代名詞ともいえる「雷様」のキャラクターが誕生しました。

『8時だョ!全員集合』終了後、加藤茶さんと志村けんさんが別の番組を始めました。

そのため、いかりや長介さん、仲本工事さん、高木ブーさんの3人での収録が中心の活動だったので、この時、高木さんは「仲が悪いとかそういうことじゃないよ。単純にスケジュールの問題」と語り、この3人での試行錯誤が雷様コント誕生のきっかけとなったとお話しされています。

普段は物静かな高木さんが、雷様の姿で長介さんに*「給料あげてくれよ」「このバカ」とボヤキ漫才のように悪態をつくのが新鮮で、高木さん自身も「すごく楽しかった」と振り返っています。

長介さんも高木さんを「どう生かすかを考えて、あえて僕にしゃべらせようと思ったんだろうな」と、リーダーの深い愛情を感じていたそうです。

雷様は、高木さん(緑)、長介さん(黒)、仲本さん(赤)の三者三様でしたが、今では「雷様といえば僕を思い出してもらえる。ありがたいよね」と高木さんは愛着を示しています。このコントでは高木さんの楽器演奏も披露され、彼を音楽家として再認識するきっかけにもなりました。

また、「妻のノロケ」を語る雷様は、愛妻家である高木さんの素顔を反映されており。長介さんが亡き妻をコントに「出演」させたエピソードからも、その絆の深さが確認できます。

高木ブーさんは今も雷様のコスチュームを自前で持ち、「みなさんが喜んでくれる限り、死ぬまで雷様を続けますよ。もはや、僕と雷様とは一心同体だから」と強い覚悟を語っています。

その一方で「突っ込んでくれる黒い雷様の長さんがいないのは、ちょっと寂しいな」と、盟友への変わらぬ敬愛と喪失感をにじませています。

1枚目の画像は1977年(当時44歳)の時からスタートした、1985年(昭和60年、当時52歳の時に「雷様」のキャラクターが誕生したきっかけの『ドリフ大爆笑』の時のものです。当時、筆者も毎週楽しみに家族と見ていました。

2枚目の画像は、2014年(当時81歳)の時に放送された『ザ・ドリフターズ結成50周年記念 ドリフ大爆笑』の時のものです。やはりドリフはいつ見ても面白いですね。

90歳を超えた現在も、高木ブーさんはウクレレ活動に精力的に取り組んでいます。

高木ブーさんは、2019年(当時86歳)にはハワイの「Blue Note Hawaii」でソロライブを成功させました。このライブは、同じ時期に開催された「第11回 ウクレレピクニック・イン・ハワイ」の一環によるもので、日本人アーティストとしては最高齢の85歳での出演となり、大きな注目を集めました。

この時、高木ブーさんは、「まさかBlue Note Hawaiiでライブが出来るなんて夢にも思っていなかったので、人生って面白いなぁ…と。これもたくさんの出逢いから生まれた出来事で、感謝しています」とお話しされています。

ハワイアン仕様のオリジナル浴衣でステージに登場し、サポートメンバーにハワイのスチールギターの第一人者であるアラン・アカカ氏を迎え、終始スタンディングで演奏するといった、活気あふれるライブで観客を魅了したことが確認できます。

上の1枚目の画像は2019年(当時86歳)に「Blue Note Hawaii」でソロライブを成功させた時のものです。このご年齢でのソロライブとはとてもパワフルですね。

その他の活動として、高木ブーさんは今から30年前の50代くらいの時に絵を描き始めました。コントで演じた自身の「雷様」キャラクターを年賀状に描いて知人に送ったのがきっかけでした。

この時、高木ブーさんは、「一枚一枚はたいしたことがないけど、こうしてまとまってみると、絵になってるね。メンバーに似てる? 何度も描いているうちに、だんだんうまくなってくるものだよ」とお話しされています。

絵心があったわけではないものの、思いのままに描いたものが好評を呼び、初の画集『高木ブー画集 ドリフターズとともに』(ワニ・プラス)が発売されたり、非売品のカレンダーも制作されたりするほどになったことが確認できます。

上の2枚目の画像は、2020年の高木ブーさん公式Instagramに投稿されたものです。高木さんらしいほんわかした絵で、高木さんのドリフターズ愛がとても感じられますね。

ザ・ドリフターズ
引用元:イザワオフィス

2024年(当時91歳)には「ドリフターズ結成60周年記念展」が開催され、高木さんも参加しました。東京開催を皮切りに全国巡業する予定だそうです。

この時、高木ブーさんは、このようにお話しされています。

「今考えてもザ・ドリフターズは本当に不思議なグループだと思うね。
一番上の長さんから一番下の志村まで20歳も離れていたのに続けてこれた。
60年間も愛して、笑い続けてくれたファンのみなさんのおかげだね。
今回のイベントにはドリフの秘宝とやらがたくさん展示されるんだって。
きっと長さん、荒井さん、仲本、志村も空の上から覗きに来るんじゃないかな。
みなさんぜひ楽しんで行ってください。」

引用元:イザワオフィス

このことから、長年のファンへの感謝と、亡きメンバーへの思いを馳せながら、来場を呼びかけていることが確認できます。

上の画像は、2024年(当時91歳)には「ドリフターズ結成60周年記念展」の時のものです。当時、リアルタイムでドリフターズを観ていた方も、最近動画配信等で知った方も楽しめそうなイベントですね。

けん

高木ブーさんは変形性膝関節症を患ったって本当?

のぞみ

うん、高木ブーさんは「変形性膝関節症」を患い、3回もの手術を受けているの。

ドリフターズのコントでは、ギターを守りながら転んだりぶつかったりすることで膝に相当な負担をかけていたと振り返っているわ。

ずいぶん前から右膝の痛みがあり、痛み止め注射でしのいでいましたが、痛みがひどくなり、2009年に人工関節置換術を受けたみたいよ!

けん

高木ブーさんは、40歳を過ぎてから自動車運転免許を取ったんだよね?

のぞみ

それは、「みんなが持っているし、自分も車を運転したい」という長年の憧れと、「家族との時間を取り戻したい」という思いから、40歳を過ぎてから自動車運転免許を取得し、ドライブやカーライフを楽しんだみたいよ。

高木ブーさんは、親に「危ない」と自転車に乗せてもらえなかった経験から、車への特別な憧れを抱いていたの。

国民的人気番組『8時だョ!全員集合』で多忙を極める中、3カ月の休みを利用し、山形の教習所で免許を取得したそうなの。

オンボロのカローラからメルセデスベンツへと乗り継ぐほどの車好きになったみたいよ。

だけど、2017年3月に75歳で運転免許を自主返納した際には、「返すって宣言しちゃったあとだったから。気づくのが遅かったなぁ」と本音を漏らしているの。

彼は、自動運転技術の進化に期待を寄せ、「そうなったら、もう一回免許取っちゃうよ」と未来に思いを馳せているみたいよ。

自身の経験から「年とったら体が動かないんだもん。いろんな所へ行ったり、いろんなことをやるのは若いうちだよ」と語っていたわ。

高木ブーのプロフィール・SNS

  • 名前:高木ブー(たかぎ ブー)
  • 本名: 高木 友之助
  • 生年月日:1933年3月8日
  • 年齢:92歳(2025年10月現在)
  • 出身地:東京都
  • 血液型:O型
  • 趣味:イラスト、洋裁、コイン収集、クレー射撃、ゴルフ 
  • 特技:ウクレレ バンジョー
  • 所属事務所:イザワオフィス
高木ブーさん
引用元:TBS NEW DIG

SNS

けん

高木ブーさんの趣味のクレー射撃のきっかけって何なのかな?

のぞみ

高木ブーさんのクレー射撃のきっかけは、ザ・ドリフターズのリーダーいかりや長介さんに誘われ、メンバー全員で始めたことだったそうなの。

しかし、他のメンバーがすぐにやめてしまう中、高木さんだけが長く続け、つい2年前まで「芸能文化人ガンクラブ」の会長を務めるほどの腕前みたいよ!

高木ブーの娘は現在何してる?奥さん・若い頃エピソードまとめ

  • 1963年に高木ブーと妻・喜代子の間に一人娘・かおるが誕生している
  • 娘のかおるは父の芸能活動を支え、キャスティングやイベント運営にも関わっている
  • 現在は父娘で芸能関連の仕事を共にし、家族ぐるみで生活している
  • 妻・喜代子は1994年に58歳で死去し、死因は悪性脳腫瘍とされている
  • 1992年頃から体調を崩し、「あと5年の命」と宣告を受けていたことが明かされている
  • 妻は高木の無名時代から洋裁で家計を支え、夫の夢を支えた存在であった
  • 妻の死後も高木は娘と孫たちに支えられながら穏やかに暮らしている
  • 夫婦の出会いは知人のダンスパーティーで、祖母の助言で結婚が実現した
  • 若い頃からふくよかな体型で、芸名「ブー」もそこから名付けられた
  • 10代でウクレレと出会い、音楽の道を志したことが人生の転機となった
  • 高校時代に仲間と切磋琢磨しながら腕を磨き、大学では音研に所属した
  • 安定した就職を辞退し、プロの音楽家として活動を始めた
  • 1964年にいかりや長介にスカウトされ、ザ・ドリフターズに加入した
  • 『8時だョ!全員集合』で国民的な人気を獲得し、「雷様」役で親しまれた
  • 90歳を超えた現在もウクレレ活動や絵画制作を続けている
  • 娘や孫に囲まれながら穏やかな晩年を送り、今もファンに感謝を伝えている
  • 家族愛と音楽愛に満ちた人生を通じて、今も多くの人に笑顔を届け続けている
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次